《サンフランシスコ》じゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、唇《くちびる》を噤《つぐ》み、じっと、この新しい大陸をみつめていました。

     十三

 税関の検査も、愛想の好《よ》い税関吏達の笑いの中に済んで、上陸したぼく達の前には、ただ WELCOME の旗の波と、群集の歓呼《かんこ》の声が充《み》ち満ちていました。市長さんから、大きな金の鍵《ゴオルデンキイ》[#「金の鍵」にルビ]を頂くまでの市中行進も、夢《ゆめ》のような眩惑《げんわく》さに溢《あふ》れたものでしたが、そのうち、忘れられぬ一つの現実的な風景がありました。
 桑港《フリスコ》の日当りの好い丘《おか》の下に、ぼく達を迎《むか》えて熱狂《ねっきょう》する邦人《ほうじん》の一群があり、その中に、一人ぽつねんと、佇《たたず》んでいる男がいた。潰《つぶ》れた鼻に、歪《いび》つな耳、一目でボクサアと判《わか》る、その男は、あまりにも、みすぼらしい風体《ふうてい》と、うつろな瞳《ひとみ》をしていました。
 一行中の朴拳闘《ぼくけんとう》選手が、この男をみるなり、「金徳一だ!」と叫《さけ》び、駆《か》けよって手を握《にぎ》っていましたが、その男の表情は、依然《いぜん》、白痴《はくち》に近いものでした。金徳一は、知る人ぞ知る、先のバンタム級の世界ベストテンに数えられた名選手でした。リングでの負傷が祟《たた》って落ち目が続き、帰国の旅費もないとやら。ぼくは、絢爛《けんらん》たる、あの行進の最中、彼《かれ》の幻《まぼろし》が、暗示するものを、打消すことが出来なかったのです。
 桑港《フリスコ》の夜、船から降りたった波止場の端《はず》れに、ガアドがあって、その上に、冷たく懸《かか》っていた、小さく、まん円《まる》い月も忘れられません。斜《なな》め下には、教会堂の尖塔《せんとう》も鋭《するど》く、空に、つき刺《さ》さって、この通俗的な抒情画《じょじょうが》を、更《さら》に、完璧《かんぺき》なものにしていました。
 月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、甚《はなは》だもの悲しいことです。
 黄色《イエロオ》タクシイの運転手に、インチキ英語《ブロオクンイングリッシュ》[#「インチキ英語」にルビ]を使って、とんでもない支那街《シナがい》に、連れこまれたことも、市場通り《マアケットストリイト》[#「市場通り」にルビ]で、一本五十|仙也《セントなり》の赤ネクタイを買ったことも、今は懐《なつか》しい思い出のひとつです。
 しかし、その夜、フォックス劇場《シアタア》できいた『君が代』の荘厳《そうごん》さは、なお耳底にのこる、深刻なものがありました。シュウマンハインクとかいう、とても肥《ふと》ったお婆《ばあ》さんで、世界的な歌手が、我々が入場して行くと、日の丸の旗と、星条旗を両手に持ち、歌ってくれたのです。満場の視線が、明るいライトを浴びた我々に集まり、むずかゆい様な面映《おもは》ゆさでした。が、その明るい光線を横ぎって、身体《からだ》をすぼめ、腰《こし》を降ろした、あなたの黒い影が、焼きつくように、ぼくの網膜《もうまく》に残っていました。あなたは、随分《ずいぶん》、窶《やつ》れていた。
 翌日、南加《サウスカルホルニア》大学で、艇《てい》を借りられるとのことで、練習に行きました。金門湾を廻《まわ》って、オオクランドに出て、一路|坦々《たんたん》、沿道の風光は明媚《めいび》そのものでした。鵞鳥《がちょう》が遊ぶ碧《あお》い湖、羊《ひつじ》の群れる緑の草原、赤い屋根、白い家々。大学もそんなユウトピアの中にあります。
 艇を借りるとき、世話を焼いてくれた、親切な南加大学の補欠漕手《サブそうしゅ》の上背も、六尺八寸はあり、驚《おどろ》かされたことでした。
 練習コオスは流れる淀《よど》み、オォルがねばる、気持よさです。久し振《ぶ》りに、はりきった、清さんの号令で、艇は船台《ランディング》を離《はな》れ、下流に向いました。
 と、突然《とつぜん》、漕《こ》ぎすぎようとする橋の上に、群れていた観衆が、なつかしい母国語で、「万歳《ばんざい》」を叫んでくれます。みれば、顔の黄色い、日本人ばかり。おおかた、聞き伝えて、近在から寄り集まった移民のお百姓達《ひゃくしょうたち》でありましょう。質素な服装《ふくそう》、日に焼けた顔、その熱狂ぶりも烈《はげ》しくて、彼等の朴訥《ぼくとつ》な歓迎には、心打たれるものがありました。
 ぼくは、愈々《いよいよ》、あなたを忘れねば、と繰返《くりかえ》し、オォルに力を入れて、スライドを蹴《け》っていたときです。前のシイトの松山さんが、「止《や》めい、止めろ」と叫びざま、オォルを投げだすや、振返って、ぼくを睨《ね》めつけ、「
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