すか」と一言。泣きッ面《つら》をみられないようにまた暗い甲板に。
靄《もや》の深い晩なので、Aデッキから、ボオト・デッキに上がり、誰にも見られず、索具《さくぐ》の蔭で悲しもうと、近づいて行くと、向うから、靴音《くつおと》がきこえて来た。
やがて、靄の底から、ぼんやり現われたのは、立派な白髯《しらひげ》を生《はや》した、紅毛のお爺《じい》さんでした。ぼくのしょんぼりした姿をみると、にこにこ笑いながら「How do you do?」と太い声できく。外人と話し合うのは初めてでしたが、先方の好意が感ぜられて嬉《うれ》しく、「Thank you, Sir. I'm very well,」と、サアをつけました。「That's good.」と、お爺さんは、重々しくうなずいて、「Are you a delegation of Japanese Olympic Team?」と尋ねます。「Yes, I am.」と言ってから、ニッコリ笑ってしまいました。すると、「What's team?」と訊《き》いたような気がするので、「Boat Crew.」と答えますと、「What's?」と小首を傾《かたむ》けます。おや、間違ったかなと想い、出来るだけ叮嚀《ていねい》に、「Please say once more.」と頼むと、からから笑い、サッカアと蹴《け》る真似《まね》をしたり、ボクシング、と撲《なぐ》る真似をします。やはりそうかと、朗《ほが》らかになり、「I am a oarsman Rowing.」と漕ぐ恰好をすると、大袈裟《おおげさ》な身振りで、「Oh! I see. It's really splendid!」とぼくの肩《かた》を叩《たた》いてから、顔を覗《のぞ》き込み、「What's the matter with you?」と気づかってくれる様です。こうなれば、なんでも叮嚀に言うに限ると思いましたから、「Thank you, Sir. Never mind, please. I am very glad to see you. How a lovely night!」とか、こんな靄の深い、厭《いや》な晩なのも忘れ、お世辞をいいました。と、お爺さんは、またアッハーと笑い、「I think so, too.」と答えると、「O.K. boy, good night.」と笑い続け去って行きます。
暫く、靴音が遠くなってから、とても若々しいハミングが、フウフウフフン、ウフフフフンとか聴《きこ》えて来ました。いつか佐藤が、食堂で、亜米利加《アメリカ》人のハミングの真似をして、事務員に叱《しか》られた事を思い出し、ぼくの出鱈目《でたらめ》英語も可笑《おか》しく、ぼくはプウと噴《ふ》き出すと、すっかり気分がよくなって、寝に帰ったのです。
しかし、翌日も、またその次の日も同じような皆の悪意が露骨《ろこつ》で、病的になったぼくの神経をずたずたに切り苛《さい》なみます。あなたに、逢《あ》えないまま、海の荒れる日が、桑港《サンフランシスコ》に着くまで、続きました。
十二
ぼくは、もう日本に帰る迄《まで》、あなたとは口を利《き》くまいと、かたく心に誓《ちか》ったのです。日本を離《はな》れるに随《したが》って、日本が好きになるとは、誰しもが言う処《ところ》です。幼いマルキストであったぼくですが、――ハワイを過ぎ、桑港《サンフランシスコ》も近くなると、今更《いまさら》のように、自分は日本選手だ、という気持を感じて来ました。
その頃《ころ》、ぼくは、人知れず、閑《ひま》さえあれば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、涯《はて》しない大洋の碧《あお》さに、甘《あま》い少年の感傷を注いで、スライドの滑《すべ》る音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。
船が桑港《サンフランシスコ》に入る前夜、ぼくは日本を発《た》つとき、学校の先生から頼《たの》まれた、羅府《ロスアンゼルス》にいる先生の親戚《しんせき》への贈物《おくりもの》、女の着物の始末に困って、副監督《ふくかんとく》のM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、彼女《かのじょ》の持物として、預かって貰《もら》えと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたと繋《つな》がっているものが欲《ほ》しかった。ぼくは、その着物に潜《ひそ》ませる、恋文《こいぶみ》のことなど考えて、その夜も、また眠《ねむ》れませんでした。
もう二時間|程《ほど》で、桑港《サンフランシスコ》に入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預
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