がろくに漕《こ》げもせんと思ったら、よう歩けもせんのか。それでもよう女だけ、出来るもんじゃ」と沢村さん。「貴様は、あまり女が好きだから、手も動かなくなるんじゃ。しっかり歩け。ぶち廻《まわ》すぞ」と松山さん。「やれやれ、なんと無器用かなア」と東海さん。等々。
ぼくは、自分の神経が病気なのを、はっきり感じました。なんの為《ため》に。紅《あか》いセエム革《がわ》がちらつく気持でした。眩暈《めまい》が起ればよかったのです。がぼくは、そのまま歩き続けました。その中、黒井さんも手の上がらないのを注意しなくなり、皆のぶツぶツ言うのも聞えなくなりました。
その日は、バック台も棒引も、目茶苦茶でした。棒引はいつも、腕力のそう違わない沢村さんが相手なのに、その日は、力も段違いな松山さんが、前のバック台に坐《すわ》り、「ほれっ、引いてみろ」と頑張《がんば》り、木株のような腕を曲げ、鼻の穴を大きくして、睨《にら》みつけます。その瞳《ひとみ》には、むしろ敵意さえ感じられました。ちょッと縄《なわ》を緩《ゆる》めてからパッと引くと訳ないのですが、それをやると、ひどく皆から怒《おこ》られ、何遍《なんべん》でも遣《や》りなおしです。黒井さんが、「もう好い」と言うまで、ぼくは油汗《あぶらあせ》をだらだら流しづめでした。
晩になって、B甲板《かんぱん》の捲揚台《ウインチ》のまわりに、皆が集まっているので、行ってみると、腕角力《うでずもう》の最中でした。初め、KOの八郎さんと、十九歳の美少年上原――彼はぼく同様新人ですが、商工部のときから漕いでいるし、ボオトも上手で、皆から愛されていました。――の二人がやって、八郎さんが負けると、「うん、上原はなかなか強い。俺《おれ》とやろう」と松山さんが節くれだった毛深い腕を出します。「いやア」と上原も顔負けしながら、やっていると、やはり、問題ではなく、松山さんが強い。
松山さんは機嫌《きげん》よく、上原を賞《ほ》めていましたが、ぼくと視線が合うと、忽ち、不機嫌な顔付になって、「おい、大坂《ダイハン》、上原とやってみい。お前の方が一ツ歳上《としうえ》じゃないか」ときめつけます。ぼくは今朝以来、自信が、少しもないので、「いや、上原君のほうが強いですよ」とべそかき笑いをしますと、「ばか、貴様は、女の尻に喰《く》いつくだけが、得意なんだな」と罵《ののし》り、豪傑《ごうけつ》笑いしてから、上原なんかと行ってしまいました。
周囲には、女の選手達、殊《こと》にちびの中村さんも居ましたので、ぼくは完全に度を失い、立ち去ろうとすると、中村さんが、少女らしく、傍《そば》にいる七番の坂本さんに、「ぼんちは身体《からだ》が大きいけれど、弱いの」と訊《たず》ねます。坂本さんは、ぼくをからかうように、「大坂《ダイハン》は温和《おとな》しいもんな」と笑います。すると隣《となり》にいた沢村さんが、大きな声で、「青大将なのよ」とぼくのいちばん嫌《きら》う綽名《あだな》を呼んでから、気持よさそうに笑い出しました。「まあ、青大将」誰《だれ》か、女のひとが、そう言って、くすッと笑うのに、羞恥《しゅうち》で消え入りそうになりながら、ぼくは漸《ようや》く、そこから逃《に》げ出したのです。
ひとりで、暗い海を暫《しばら》くみてから、寝《ね》に帰ろうと、喫煙室《きつえんしつ》のなかを通り抜けていると、一隅《いちぐう》で沢村、森、松山、東海さん達が、麻雀《マアジャン》をやっていましたが、「おい、おい」と河村さんが、ぼくを呼びとめます。
どうせまた、嘲弄《ちょうろう》されるとおもいましたが、知らん振りもできないので、近よると、「おい、さっき中村がお前のことを、ボンチと呼んでいたが、あれはお前の綽名か」とききます。「さアどうですか」と白ばっくれるのに、「どういう意味か、知ってるか」とニヤニヤ皆と目くばせしてから、尋《たず》ねます。関西弁で、坊《ぼっ》ちゃんという事じゃないですか、と正直に答えようと思いましたが、また反感を買ってもと思い、「知りません」と些《いささ》かくすぐつたい返事をすると、横から、東海さんが、大声で、「あれは関西で、白痴《はくち》のことを言うんだよ」と言えば、沢村さんも、「そうとも、ボンチはつまりポンチと同じことじゃ。阿呆《あほう》のことをいうんだぞ」と大笑い。と、森さんが、したり顔で、「ああ、それで解《わか》った。女の選手達が、大坂《ダイハン》のことをボンチとか、ボンボンとか呼んでいるのは、そういう意味か」と、言えば、松山さんも荒々《あらあら》しく、「大坂《ダイハン》よ、お前は惚《ほ》れている女から、いつも馬鹿と呼ばれているんだぞ」と罵り、そこで皆から、ひとしきり嘲笑の雨。
ぼくは、しばしポカンとしていましたが、堪《た》え切れなくなると、「そうで
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