に、シャッシャッと漕《こ》ぎだすと、一本々々のオォルに水が青い油のように、ネットリ搦《から》みついて、スプラッシュなどしようと思っても、出来ないあんばい。三十本も漕ぐと、艇はたちまちコオスの端《はし》まで行ってしまう。河幅わずか十米あまり。漕いでいるオォルの先に、ぷうんと熱帯の花々が匂うばかりです。さすがに先輩《せんぱい》たちも感にたえたか、ぼくはいつもの叱言《こごと》一つさえ、聴《き》きませんでした。五番の松山さんが、突然「あーア」とおおきい溜息《ためいき》をつき、「おーイ、みんな、漕ぐのは止《や》めろッ、寝《ね》ろッ寝ろッ」と叫《さけ》びさま、オォルをぽおんと投げだし、ぼくの太股《ふともも》のうえに、もじゃもじゃの頭を載《の》せました。彼の鬼《おに》をも欺《あざむ》くばかりの貌《かお》が、ニコニコ笑うのをみると、ぼくは股の上の彼の感触《かんしょく》から、へんに肉感的《センシュアル》なくすぐッたさを覚え、みんなに倣《なら》って、やはり三番の沢村さんの膝《ひざ》に、頭をのせ仰向《あおむ》けになりました。と、そんな吝《けち》な肉感なんか、忽ちすッとんでしまうほど空はとろけそうに碧く、ギラギラ燃えていた。その空の奥に、あなたの顔の輪廓《りんかく》が、ぼおっと浮んだような気がしました。

 あなたに逢いたい、逢いたいと思っていた。そうしたら、ワイキキ・ビイチに行く途中、凱旋門《がいせんもん》のところで、あなたと内田さん達の一行に、ぱったり逢いました。ぼく達の自動車は、助手席の処《ところ》にぼく、うしろに三番の沢村さん、二番の虎さんなんかが乗っていた。あなたはその日、朝からずうっと萎《しお》れどおしのようでした。ただ、内田さんは、たいへん元気で、あなた達がつけたぼくの綽名《あだな》を呼び「ぼんぼん、アイスクリイムあげよう」と片手に、容器を捧《ささ》げてとんで来ました。ちょうど、車が動きだしたところだったので、はにかみながら腕《うで》を伸《の》ばした。ぼくには届かず、うしろの沢村さんが、ひッたくッてしまった。そして、なにか猥褻《わいせつ》なことを内田さんに言い、自分もすこし照れた様子で、わざと「うまい。うまい」と内田さんのほうに、みせびらかしながら、虎さんと食ってしまいました。虎さんも助平な事を言い、豪傑《ごうけつ》笑いしてから食っていた。
 ぼくは甚《はなは》だ、憤慨《ふんがい》したが、弱いのだから止むを得ません。ただ、半べそを掻《か》きつつ、「ひどいわ。意地悪」と叫んでいる内田さんに、たいへん愛情を感じました。
 しかし、それはその時に、沸《わ》き上がった感情です。あなたに対しては、心の中で、すでに、愛さなければならないという規範《きはん》を、打ち樹《た》てていたと思います。
 ホノルル・ブロオドウェイの十仙店《テンセンストア》で、ぼくは、紅《あか》のセエム革《がわ》表紙のノオトを買いました。初めて、米国の金でした買物、金五十仙|也《なり》。ぼくは、それをあなたとの、日記帳にしようと思って厭《いや》らしく、紅い色のものを買ったのです。しかし、それも後から憶《おも》えば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ白紙《カイエブランシュ》のなかに、記憶《きおく》だけを止《とど》めておいたほうが、良かった結果になりました。

 翌月の午後は、個人外出を許され、船の出帆《しゅっぱん》時刻は、確か、七時でしたが、ひとりぼっちで歩いていても、面白《おもしろ》くなく、帰ったならば、案外また、あなたに逢えるかとも思うと、四時頃からもう帰船しました。
 午前中の甲板には、銭拾いの土人達が多勢、集まって来ていて、それが頂辺《てっぺん》のデッキから、真ッ逆様《さかさま》に、蒼い海へ、水煙《みずけむ》りをあげて、次から次へ、飛びこむと、こちらで抛《ほう》った幾《いく》つもの銀貨が海の中を水平に、ゆらゆら光りながら、落ちて行く。それを逸早《いちはや》く、銜《くわ》えあげたものから、ぽっかりぽっかりと海面に首を出し、ぷうっと口々に水を吐《は》きながら、片手で水を叩《たた》き、片手に金をかざしてみせる。とまた、忽ち猿《さる》の如《ごと》く甲板に攀《よ》じのぼってきては、同じ芸当を繰返《くりかえ》すのでした。その中に、ぼくは片足の琉球人《りゅうきゅうじん》城間《クスクマ》某《ぼう》という、赤銅色《しゃくどういろ》の逞《たくま》しい三十男を発見し、彼の生活力の豊富さに愕《おどろ》いたものです。
 然し、外出から帰ってみると、甲板には、もう土人達は一人もいず、その代りに第二世のお嬢《じょう》さんたちが、花やかに着飾って、まだ、あまり帰っていない選手達を取り巻いていました。
 真面目でもあるし、殊《こと》にフェミニストの坂本さんが、やはり、五六人のお嬢さん達に
前へ 次へ
全47ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング