ぼくが洋装をした田舎の小母《おば》さん然たる奥《おく》さんに、にこにこ笑いながら掛けて貰ったレイの花は、ひとつでも堪えられないくらい芳烈《ほうれつ》な香《かお》りを放っていました。ぼくは、その匂《にお》いのなかに、恋情《れんじょう》の苦しさを甘《あま》くする術《すべ》を発見したのでした。
それから、間もなく催《もよお》して頂いた、ハワイの官民歓迎会の、ハワイアン・ギタアと、フラ・ダンス、いずれも土人の亡国歌、余韻嫋々《よいんじょうじょう》たる悲しさがありましたが、ぼくは、その悲しさに甘く陶酔《とうすい》している自分を、すぐ発見して、なにか可憐《いと》しく思ったのです。ハワイでは、あなたと一度も、話し出来ませんでしたが、ぼくは、美しい異国の風景のなかに、あなたの姿を、まぼろしに描《えが》くだけで、満足でした。
ぼく達が日本語よりも、英語がうまいのを自慢《じまん》にしている運転手君――というのは、ぼく達が波止場から邦人の提供してくれた、自動車に乗りこむと、早速、英語で話しかけて来て、皆が、第二世君と思っていたのに、土人かしらと、些《いささ》か唖然《あぜん》としていると「あなた達、英語出来ないんですねエ」と軽蔑《けいべつ》したように、初めて日本語を使った――その小生意気な運転手君に連れられて一同と共に、奇勝ノアノパリに向う途中《とちゅう》、もの凄《すご》い大雷雨《だいらいう》に、襲《おそ》われました。が、忽《たちま》ち、からりと晴れると、なんとその透《す》き徹《とお》るような碧《あお》い空の見事さ。雨に濡《ぬ》れ、緑のいっそう鮮《あざ》やかに光り輝《かがや》く、草木のあいだに、撩乱《りょうらん》と咲き誇《ほこ》っている、紅紫黄白《こうしこうはく》、色とりどりの花々の美しさ、あなたは何処《どこ》にでもいる気がふッと致《いた》しました。
ぼくはものを感じるのは、まあ人並《ひとなみ》だろうと、思っていますが、憶《おぼ》えるのは、面倒臭《めんどうくさ》いと考える故《ゆえ》もあって、自信がありません。
それでも、ノアノパリの絶壁《ぜっぺき》上に立ち、世界で三番目に強いと言われる風速何十|米《メエトル》かの突風《とっぷう》、顔をたえず叩《たた》かれ上衣《うわぎ》をしょっちゅう捲《ま》くられているような烈風を受けつつ、眺めた景色は髣髴《ほうふつ》と、今でも浮《うか》んできます。眼前に展《ひろ》がる蒼茫《そうぼう》たる平原、かすれたようなコバルト色の空、懸垂直下《けんすいちょっか》、何百米かの切りたった崖《がけ》の真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草を食《は》んでいる。その牛馬一|匹《ぴき》々々の玩具《おもちゃ》のような小ささ、でもさすがに、獣《けだもの》の生々しい毛皮の色が、今も眼にあります。
しかし、後方右側に聳《そび》えたつ、なんとか峰はたえず陽に輝き、左側のなんとか峰はたえず雨に降られている。これは、その昔《むかし》ハワイの王様なんとか一世が、なんとかいう蛮人《ばんじん》の酋長《しゅうちょう》を、火牛の戦法で、この崖から追い落した。で、陽の照っているほうは、なんとか一世の善霊《ぜんりょう》、鎮《しず》まり、雨に降られているほうは、蛮人なんとかの悪霊、鎮まるという、こんな伝説の固有名詞は全部忘れてしまいました。が、折からの驟雨《しゅうう》が晴れて、水々しい山頂をくっきりと披璃《はり》のような青い空に、聳えさせていた峰々のうるわしさは、忘れません。
あなたはあのとき、びッしょり濡れて、善霊峰の下の洞穴《どうけつ》に、風雨を避《さ》けていた。スカアトの襞《ひだ》も崩れ、手巾《ハンカチ》を冠《かぶ》って強風にあおられている。あなたは、朝の印象もあって、ばかに惨めにみえました。が、その苦しさも、ハワイの素晴しい自然が、すぐ慰《なぐさ》めてくれ、甘いものとする。そう考えるほど、ぼくは自分のなかだけで、恋情を育てていたのです。
午後から、ハワイのロオイング倶楽部《クラブ》に、招待されて練習に行きました。
コオスはほんとうに、草花につつまれているのどかさで、小波《さざなみ》ひとつなく、目にみえる流れさえない掘割《ほりわり》でした。隅田《すみだ》川の濁流《だくりゅう》、ポンポン蒸汽、伝馬船《てんません》、モオタアボオト等に囲まれ、せせこましい練習をしていた、ぼく達にとって、文字どおり、ドリイミング・コオスといった感じです。艇《てい》は、固定席《フィックス》が滑席艇《スライデング》に移るまえにあった。ドギュウと日本では称しているような昔|懐《なつか》しいもの。それにオォルの握《にぎ》りも太く、ブレエドの幅《はば》も広く、艇は遅《おそ》いけれど、バランスがよく、舟足も軽い。まっさおい水の上に、艇をポオンと置いてから、約|一月《ひとつき》ぶり
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