べているうち、ふっと瞼の裏が、熱くなりました。食いおわった杏の種子を、陽にかがやく海に、抛《ほう》ろうとしてから、ふと思い直し、ポケットのなかに、しまいこみました。
 しばらく海をみてから、もう練習かなと、Bデッキを瞰下《みおろ》すと、皆はまだ麻雀《マアジャン》でもしているのでしょう。甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で羅府《ロスアンゼルス》行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、莫迦《ばか》みたいに、頬笑《ほほえ》んで、瞰下していると、あなたは、直《す》ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。隣《となり》のお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、寝《ね》てしまっている様子です。
 思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげて振《ふ》る。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
 一瞬《いっしゅん》、船は停《とま》り、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんと碧《あお》い空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくは溶《と》け込んだ気がしたが、それも束《つか》の間《ま》、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまり恐《おそろ》しく、身体を翻《ひるが》えし、バック台の方へ逃《に》げて行き、こっとん、こっとん、微笑《びしょう》のうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげ応《こた》えると、また、にこにこと笑い交《かわ》して、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。
 翌晩でしたか、ひどい時化《しけ》の最中、すき[#「すき」に傍点]焼会がありました。大抵《たいてい》のひとが出て来ないほど、船が、凄《すさ》まじくロオリングするなか、ぼくは盛《さか》んに、牛飲馬食、二番の虎《とら》さんや、水泳の安《やす》さんなんかと一緒《いっしょ》に、殆ど、最後まで残って、たしか飯を五杯以上は食いました。その飯には、杏の味の甘美《かんび》さが、まだ残っている気がしたのでした。

 そして、いよいよ Blue Hawaii です。

     九

 ハワイの想《おも》い出《で》は、レイの花からでした。
 第一装《だいいっそう》のブレザァコオトに着更《きが》え、甲板《かんぱん》に立っていると、上甲板のほうで、「鱶《ふか》が釣《つ》れた」と騒《さわ》ぎたて、みんな駆《か》けてゆきました。しかし、ぼくは漸《ようや》く、雲影模糊《うんえいもこ》とみえそめた島々の蒼《あお》さを驚異《きょうい》と憧憬《どうけい》の眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
 未知の国を初めてまのあたり眺《なが》める感動と、あなたへの思慕《しぼ》とがありました。その頃《ころ》、漸くにして、自分の技倆《ぎりょう》の未熟さはさておき、とにかく日の丸の下に戦わねばならぬ、自分の重責を、あなたへの思い深まるに連れて、深く自覚自責するものがありました。ぼくは、あなたへの愛情をどうしても、帰国後まで、大切に、蔵《しま》っておかねばならぬと、おもった。然《しか》し、具体的なことはまだ一言も言わなかったし、言えもしなかった。ぼくの焦躁《しょうそう》はひどいものでした。
 ようやく波止場も見えてきて、全員集合を命ぜられたとき、いつもの様に、ぼくの眼は、あなたの姿を探していました。或《あ》る人達が、わめきちらす、女子選手達のお尻《しり》についての無遠慮《ぶえんりょ》な評言を、ぼくは堪《た》えられないような弱い気になって、聞くともなく聞いていると、いちばん後《おく》れてあなたが、うち萎《しお》れた姿をみせた。
 あなたは、先頃の明るさにひきかえ、一夜の中に、醜《みにく》く、年老《としと》って、なにか人目を恥《は》じ、泣いたあとのような赤い眼と手に皺《しわ》くちゃの手巾《ハンカチ》を持っていました。ぼくは、あなたが、てっきりぼく達のことについて、なにか言われたのではないかと、勝手な想像をして、黯然《あんぜん》となったのです。おまけに、そのとき、あなたはぼくが逢《あ》ってから、初めて厚目に、白粉《おしろい》をつけ、紅を塗《ぬ》っていた。その田舎娘《いなかむすめ》みたいなお化粧《けしょう》が、涙《なみだ》で崩《くず》れたあなたほど、惨《みじ》めに可哀想《かわいそう》にみえたものはありません。
 あたかも、直《す》ぐそのあとで、ぼくの胸には、歓迎|邦人《ほうじん》からの、白い首飾《くびかざ》りの花が掛《か》けられました。有名な選手などは、二つも三つも掛けて貰《もら》っていましたが、
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