、大きな亀《かめ》の子を二|匹《ひき》、記念に貰《もら》い頸《くび》に紐《ひも》をつけ、朗《ほが》らかに引張って歩いているのが目立っていました。アメリカ人に、「Mayachita, Mayachita」と呼ばれて人気のある水泳の宮下も、船橋《ブリッジ》の上で手を打ちふりながら、いつ迄《まで》も熱狂《ねっきょう》的な歓送に応《こた》えていました。負けて還るほうは、拳闘《けんとう》の某氏《ぼうし》のように責任を感じて丸坊主《まるぼうず》になったひともいましたが、やはり気恥《きはず》かしさや僻《ひが》みもあり張り詰《つ》めた気も一遍《いっぺん》に折れた、がっかりさで、ぼくは雑沓《ざっとう》するスモオキング・ルウムの片隅《かたすみ》にしょんぼり腰《こし》を降ろしていたのです。
 あなたとのことも、往《い》きの船では、帰りの船でこそ話もしよう遊びもできようと、あれやこれや空想を描《えが》いていたのですが、さて眼前、現実にその時が来てみると、最前、船のタラップを、服《ドレス》も萎《しお》れ面《おもて》も萎れて登ってきたあなたの可憐《かれん》な姿が目のあたりにちらつきながら、手も足も出ず心も痺《しび》れ、なるままになれと思うのが、やっと精|一杯《いっぱい》のかたちでした。
 出帆《しゅっぱん》前の華《はな》やかな混雑も煩《うる》さいままに、独りで、ガアデン・ルウムに入って行ってみると、すでに先客がひとり、ひっそりとした青い空気のなかで、硝子《ガラス》越し一杯の陽光を浴びながら、熱帯樹の葉っぱを弄《もてあそ》んでいました。
 その男は百|米《メエトル》の満野でした。かつて吉岡が擡頭《たいとう》するまでの名スプリンタアではありましたが今度のオリムピックには成績も悪く、いまは凋落《ちょうらく》の一途《いっと》にあったようです。彼《かれ》はぼくをみると磊落《らいらく》に笑い、退屈《たいくつ》なまま色々な打明話をしてくれました。彼はKOの予科三年で続いて二度落第していると語り、「こんども駄目《だめ》だから、まア退学は固いね」と他人言《ひとごと》のように笑っていました。小学校のときから駆《か》けてばかりきて歳《とし》を老《と》り、いま学校を追われる様になってもスポオツで食う見込はたたず、「まア国に帰って、兄貴の店でも手伝うか」と言っていましたが、スポオツでなにも掴《つか》み得なかった悔恨《かいこん》が、彼の心身を蝕《むし》ばんでいるさまがありありと感ぜられ、外では歓呼の声や旗の波のどよめきが潮《うしお》のように響《ひび》いてくるままに、なにかスポオツマンの悲哀《ひあい》、身に染《し》みるものがあって、ぼくも心がむなしかったのです。
 浪《なみ》に明け浪に暮《く》れる日々。それから毎日、海をみて暮《くら》していました。誰《だれ》やらの抒情詩《じょじょうし》ではありませんが、ただ青く遠きあたりは、たとうれば、古き思い出。舷側《げんそく》に、しろく泡《あわ》だっては消えて行く水沫《うたかた》は、またきょうの日のわれの心か、と少年の日の甘ったるい感傷に溺《おぼ》れこんでもみるのでした。阿呆《あほう》なぼくは時折、あなたのことを思い出しては、痛く胸を噛《か》む苦さと快さを愉《たの》しんでいました。
 アメリカを発《た》ってから五日目。暖かい陽光をいっぱいに浴びた甲板のデッキ・チェアに腰《こし》を降ろして、蒼々《あおあお》と凪《な》いだ太平洋をみるともなく眺《なが》めていますと、どやどやと下のケビンから十人ばかりの女子選手達があがって来ました。
 内田さんや中村|嬢《じょう》のなかに交ってあなたの姿もみえたとき、ぼくは心が定らないまま逃《に》げだしたい衝動《しょうどう》にかられました。しかし女のひとが好きで且《か》つおっちょこちょいのぼくは、あなた達から好意を持たれているのを意識しているだけ、なにか気の利《き》いた文句を一言聞かせたく、その為《ため》だけでも浮々《うきうき》と皆《みんな》を迎《むか》えるのでした。みんなはお喋《しゃべ》りな小鳥のようにペちゃくちゃ囀《さえず》りながら、附近《ふきん》のデッキ・チェアに群がりましたが、ぼくの顔をみるや、急に内田さんから始まって、ひそひそ話になり、一度にぱっと飛びたって、一瞬《いっしゅん》の間に全部いなくなってしまいました。あとにあなたともう一人、円盤《えんばん》の石見嬢が残っていましたが、石見さんもみんなの俄《にわ》かに席から立ち去って了《しま》ったのに驚《おどろ》くと、きょろきょろ辺《あた》りを見廻《みまわ》して、初めてあなたとぼくに気づくと、こちらが照れてしまうほど真《ま》ッ赧《か》になり、大きな身体《からだ》をもじもじさせ、スカアトの襞《ひだ》を直したりして体裁《ていさい》を繕《つくろ》ってから、大急ぎで駆《か》
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