ぼくはサイクロレエンから降りたった後、なにもかもが飛び去ったあとのような心地よさで独り、岸にたち、潮風に、髪の毛をなぶらせながら、青黒くひかる海を、虚心《きょしん》に、眺《なが》めていました。
その後、羅府《ロスアンゼルス》動物園へ、選手一同|赴《おもむ》いた折にも、巨《おお》きな象の二三頭が、放し飼《が》いになって自由に散歩しているあいだを、内田さんと手を繋《つな》ぎ歩いているあなたの姿をお見掛《みか》けしたことがあります。
その朝、ぼくはデレゲェションバッジをなくなし、皆《みんな》にまた口汚《くちぎた》なくいわれる疑懼《ぎく》と、ひとつは日頃嘲弄《ひごろちょうろう》される復讐《ふくしゅう》の気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジを盗《ぬす》み、東海さんの困却《こんきゃく》をまのあたりみせられ、些《いささ》か後悔《こうかい》の念に駆《か》られ、良心の苛責《かしゃく》もひどかったときなので、ともすれば見失いそうな自分の姿を掴《つか》まえる為《ため》、すっかり茫然《ぼうぜん》としていて、近くにあった、あなたの姿にも、痛いものをみる想《おも》いで眼をそらした。
その癖《くせ》、そのときでも、あなたが見えなくなると、バッジの件を考える苦しさよりもあなたを想う甘さに惹《ひ》かれるのでした。
そうしたときでも、いつもあなたには逢いたいような、逢いたくないような気持が、例《たと》えば、『逢わぬは逢うにいやまさる』といった都々逸《どどいつ》の文句のように錯綜《さくそう》して、あなたを慕《した》っていたのです。
マウントロオで、ケエブルカアから降りて村川と二人、養狐場《ようこじょう》のほうへ行きかけると、すれちがった若い亜米利加娘《アメリカむすめ》が二人、とつぜんぼく達を呼びとめ、ぼくの持っていたカメラで撮《うつ》してくれというのです。たいへん朗《ほが》らかな、可愛《かわい》い娘さん達なので、喜んで、一緒に写真をとったり名刺《めいし》を貰《もら》ったり、手振《てぶ》り身振りで会話をしたりしました。そうしたとき、奇妙《きみょう》に強く、想われるのはやはりあなたの面影《おもかげ》でした。
ホワイトポイントヘ魚釣《さかなつ》りにも行きましたが、ぼくは釣なぞしたことがないので、無闇《むやみ》やたらにそこいら辺を歩きまわっただけでした。ひとりで、ホテルの裏にでると、ダンス場があって、ちょうどヒリッピン人の会合があり、彼等《かれら》が、勝手放題に、淫《みだ》らな踊り方をしたり、または木蔭《こかげ》で抱擁《ほうよう》し合っているのをみると、急に淋《さび》しく、あなたが欲《ほ》しくてたまらなくなるのでした。
試合《ゲエム》が済んだあとでは、みんな、各自、県人会のひとに案内して貰ったり、または自分達同士でロスアンゼルスに遊びに行ったりしては、やれ今日は飛行機に乗ったとか、秘密のキャバレエで酒を飲まされたとか、レビュウガアルのアパアトで三十|弗《ドル》もとられたとか、そんな話の種を持って帰っては、面白そうに話しあうのでしたが、ぼくはまた、独りぽっちの仕様ことなしに、近所の子供と遊んだり、子供達から自転車を借りて乗りまわしたり、ただあてもなく散歩したり、そんな無為《むい》な日々をすごすことが多かった。
いまでも憶《おも》いだす、なつかしい路《みち》は、合宿裏の花壇《かだん》にかこまれた鋪道《ほどう》のことです。
ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、陽《ひ》があたっている明るさ暖かさでした。ぼくがその路を、胸に紅《あか》く日の丸のマアクの入ったスエタアを着て、トレエニングパンツのゴムをぱちんぱちんとお腹にはじきながら、ぶらぶら何遍《なんべん》も往復し一体どんな歌をうたっていたと思います。おけさ節に、インタアナショナル、北大校歌に、オリムピック応援歌《おうえんか》、さては浪花節《なにわぶし》に近代詩といった取り交ぜで、興がわくままに大声はりあげ、しかも音痴《おんち》はこの上なしというのですから、他人には見せも聞かせもしたくない、のんびりした阿呆《あほ》らしい風景でした。
そんなとき、いちばん誰|憚《はば》からず、あなたのことを想って、愉《たの》しいときを過しました。白昼、花々|匂《にお》う小路をさまよい、勝手な空想にふけっていれば、あなたはいつもぼくの身近く、浄《きよ》らかな童女のような相貌《そうぼう》で、ぼくにつき纏《まと》っていたのです。
二十
宿舎の近くに、アイスクリイムスタンドがあって、そこに、十八|歳《さい》になる、ナンシイという可愛《かわい》い看板娘《かんばんむすめ》がおりました。
ぼくなぞは、夜間照明のベエスボオルなどを近所
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