した。まるで、泰西《たいせい》名画のみごとな版画をみているように、湿《しめ》り気のない空気が、全《すべ》てのものを明るく、浮立《うきた》たせてみせてくれるのでした。
突然《とつぜん》、ぼくの脇《わき》に坐《すわ》っていた、坂本さんが、ぼくの横腹をこづきます。ひょいとみると、女子選手ばかりを乗せた、前のバスが、おくれて、こちらの車台とくっつきそうになって走っています。その背後の座席に、あなたが坐っていて、人形をかざし、こちらに見せびらかすようにして顔を硝子《ガラス》に押《お》しつけていました。
硝子窓に潰《つぶ》され、凹《へこ》んだ鼻をしているその顔がまるで、泣きだしそうな羞恥《しゅうち》に歪《ゆが》んでおり、それを堪《た》えて、友達と笑い合っては、道化《どうけ》人形を踊《おど》らせ、あなたは、こちらの注意を惹《ひ》こうとしていました。恐《おそ》らくぼくを笑わそうとして、無理におどけてみせてくれるのだと、ぼくは考えあなたの故意《わざ》とらしさが悲しく、あなたに似合わない大胆《だいたん》さが苦々しくて、ぼくにはそのとき、あなたが大変、醜《みにく》くみえた。
とうとう、前の車が故障でとまり、みんながぞろぞろ降りだしたのをみたとき、ぼくは顔をまともに合せたら、あなたが、どんな表情になるか、眼に見える心地がして、そればかりが気懸《きがか》りになりました。
果して、あなたはピエロ人形を片手に、踊らせながら、やはり、泣き笑いみたいな顔で、ぼくのほうをちらっと見たが、ぼくが笑いもせず、反《かえ》って視線のやり場に困った鬱陶《うっとう》しい顔をしているのをみると、あなたは、面を伏《ふ》せ、くるりとうしろを向き、ひとりで、バスに乗ってしまった。車が出て、背後の硝子窓に凭《もた》れかかった人形は、あなたの手と一緒《いっしょ》に再び踊りだした。しかし、顔をみせない、あなたが、友達と笑いあっているのか、ひょっとしたら、泣いて慰《なぐさ》められているのか、想像のつかないまま、あなたの肩《かた》は震《ふる》えていました。
ぼくは一体、人目を憚《はば》かったのか、それともそうしたあなたが嫌《きら》いだったのか、それも判《わか》らぬ複雑|奇怪《きかい》な気持で、どうでもなれとバスに揺《ゆ》られていました。気の弱い、我儘《わがまま》なぼくも厭《いや》だったし、あなたも厭だった。
そうして、人形は踊りを止《や》め、バスの後窓に凭れたまま、小さくなり、見えなくなって行くのでした。
ベニスに着いてから、竜《ドラゴン》の口が出入り道になっているサイクロレエンに乗りました。
トロッコ様の箱車《はこぐるま》の座席が三段にわけてあり、まえに豪傑《ごうけつ》の虎さんと色男の有沢さんが乗り、真中にぼくと清さん、うしろに柴山と村川が乗りました。前に横たえてある棒をしっかり握《にぎ》っているうち、車は滑《すべ》りだし、深い穴のなかに陥《お》ちてゆきます。再び、登りだしたときは、背も反《そ》るような急角度の勾配《こうばい》でした。あれよ、あれよという間に、いちばん頂辺《てっぺん》にまで出ると、遥《はる》かサンピイドロの海が眼下にかすみ、沖にはキャバレエになっているという豪華船《ごうかせん》――当時は禁酒法《ドライ》でしたから――が豆《まめ》のように、ちいさい。が次の瞬間《しゅんかん》に、車は急転直下、直角にちかい絶壁《ぜっぺき》を、素晴しい速力ですべり落ちてきます。背中を丸くして、横棒にかじりついていても、腰《こし》が浮くすさまじさです。と、すぐ前から、「ヒェーッ」という金属的な悲鳴が、風に流れきこえてきました。色男の有沢さんの声です。実際、声でもたてねばやり切れぬ、気持でした。車はあるいは急角度に横にまがり斜《なな》めにおち、ガッタンガッタンと、登ったかとおもえば、また陥ちる、頭の髪《かみ》が、風にふかれて舞《ま》い上がるのも、恐怖《きょうふ》に追われ逆立つおもいでした。
もう後では、目をつむってこらえている内、するすると竜の口から再び吐《は》きだされて、おしまいでした。降りたった六人は、今更《いまさら》のように聳《そび》えたつサイクロレエンを眺《なが》めて、感にたえた顔をしていましたが、有沢さんの悲鳴を誰《だれ》かが言いだすと、途端《とたん》に、みんなゲラゲラと大笑いがとまりませんでした。
それまでに、サイクロレエンに乗っていた酔《よ》っぱらいの水兵が、滑走《かっそう》の途中、立ち上がり、横木にはさまれて頸《くび》を折ったとか、赤ん坊を抱《だ》いた若妻が滑りおちる恐怖にたえかね、子供を手放したので、赤ん坊がおっこち頭を割って死んだとか、そんな話もきかされていたのですが、自分が実際乗ってみると、そんな嘘《うそ》のような話も真実におもわれる物凄《ものすご》さでした。
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