》に努めるなど、その光景は惨憺《さんたん》たるものがあった。選手は幸いにして、数分後には、気を取り直しボオトを引き上げ、更衣所《こういじょ》に帰るや、一同その場に打ち倒《たお》れ、語るに言葉なく、此所《ここ》にも綴《つづ》るレギヤツタ血涙史《けつるいし》の一ペエジを閉じた※[#二重かっこ閉じ]
 ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、敢《あえ》て書こうとは思いません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろうと思われるからです。ただ、それほど、言語を絶した苦しさがあるものと思って下さい。

 あのとき、観覧席《かんらんせき》の一隅《いちぐう》に、日本女子選手の娘達《むすめたち》が、純白のスカアトに、紫紺《しこん》のブレザァコオトを着て、日の丸をうち振り、声援していてくれた、と後でききました。しかし、ぼくは、そのとき、あなたの姿なぞ求めようともしない、口惜《くや》しさで負けたレエスに興奮していた。
 負けたという実感より、気持の上では、漕ぎたりない無念さで、更衣所にひき揚《あ》げてきたとき、いちばん若いKOの上原が、ユニホォムを脱《ぬ》ぎかけ、ふいと、堰《せき》を切ったように泣きだしました。
 すると主将の八郎さんが、かつてみない激しさで「泣くな。勝ってから、泣け」と噛《か》みつくように叱《しか》った。
 その激しい言葉に、自己感傷に溺《おぼ》れかけていたぼくは、身体が慄《ふる》えるほど、鞭《むち》うたれたのです。

 第二回戦《セカンドヒイト》は、独逸《ドイツ》、加奈陀《カナダ》、新西蘭《ニュウジイランド》とぶつかり、これも日本は、第三着で、到頭《とうとう》、準決勝戦に出る資格を失ったのでした。

     十八

 レエスも済み、為《な》すべきことを失ったようなぼくは、あなたのことを、やっと具体的に考える機会に恵《めぐ》まれた訳ですが、ぼくの心の卑《いや》しさからか、遠すぎるあなたの代りは、身近くのあてもない享楽《きょうらく》を求めて、彷徨《さまよい》あるき、なにかの幸福を手掴《てづか》みにしたい焦慮《しょうりょ》に、身悶《みもだ》えしながら、遂々《とうとう》帰国の日まで過してしまいました。
 帰国するまでに、約二週間はありましたから、その間、羅府《ロスアンゼルス》のブロオドウェイを、或《ある》いは、ロングビイチの下町を、又《また》はマウントロオの養狐場《ようこじょう》を、ただ訳もなく遊び歩いたのも、ひたすら手近な享楽で、眼の前に蓋《ふた》をしている気持でした。
 夜、ロスアンゼルスからの帰りに、自動車を停《と》めさせ、皆《みんな》が一斉《いっせい》に降りたって、小便をしたとき、故国日本を想《おも》いだすような、蛙《かえる》の鳴声をきいたことも、仄《ほの》かに憶《おぼ》えています。或いは、海水浴場の近くで、六十|歳《さい》前後の老人夫婦から、十五歳位の少年少女のカップルに至《いた》るまで、ダンスを愉《たの》しんでいるホオルを覗《のぞ》いたことも、ダウンタアオンで五|仙《セント》を払《はら》い、メリイゴオランドの木馬に跨《また》がったことも、ボオルを黒ん坊《ニグロ》[#「黒ん坊」にルビ]にぶつけて、亜米利加《アメリカ》美人を落したことも――。
 その黒ん坊が、意外にも日本人だったのです。虎《とら》さんが、ボオルを握《にぎ》って、モオションをつけると、いきなり黒ん坊が鮮《あざ》やかな日本語で、「旦那《だんな》はん、やんわり、頼《たの》みまっせ」と言い、ぼく達が、驚《おどろ》き呆《あき》れていると、「顔は黒う塗《ぬ》ってますが、心は同じ日本人でさア」その言葉の終らないうちに、虎さんの直球が、黒ん坊の額にはずみ、彼が引繰《ひっく》り返ると、そのはずみに仕掛《しかけ》が破れ、右上の鳥籠《とりかご》に腰《こし》かけていた亜米利加美人がばちゃんと、下のプウルに落ちこみました。
 さては、射的場で、兎《うさぎ》を撃《う》ったことも、十仙出して本物のインディアンと腕角力《うでずもう》をしたことも、マジック・タアオンの鏡の部屋で――。
 そうだ、マジック・タアオンで、起ったあなたについての幻想《げんそう》を書いてみましょう。
 金十五仙なりを払って、魔術《まじゅつ》の街の入口の真暗い部屋に入り、その部屋をぬけると、長い廊下《ろうか》がありました。やはり、手探りしながら、歩く暗さで、暫《しばら》くゆくと、突然《とつぜん》、足下の床《ゆか》が左右に揺《ゆ》れだし、しっかり踏《ふ》みしめて歩かぬと、転げそうでした。廊下の行詰りになった壁《かべ》をおすと、薄暗《うすぐら》い寝室《しんしつ》で、ランプがついていて、マントルピイスの上が白く光るので、近よってみると、人骨がばらばらにおいてあるのでした。子供だましみたいなので、微笑《ほ
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