大きな声ではいえぬことです。その日、フウバア大統領の前を、颯爽《さっそう》と、分列行進をしていった女子選手達のうちに、あなたのりりしい晴れ姿をちらっと垣間見《かいまみ》ました。はるかな美しさで、ぼくは、そッと、瞼《まぶた》のうちに、蔵《しま》っておいた。

     十七

 オリムピックのなかでも、青《ブリュウ》リボンと呼ばれる、壮麗《そうれい》なレガッタのなかで、ぼくには、負けて仰《あお》いだ、南カルホルニアの無為《むい》にして青い空ほど、象徴《しょうちょう》的に思われたものはありません。

 スタアトラインに並《なら》んで「ムッシュ。エティオプレ」「パルテ」という出発の号音を聞いたときは、ただ漕《こ》いだ。並んだ、剣橋《ケンブリッジ》クルウのオォルの泡《あわ》が、スタアト・ダッシュ、力漕《りきそう》三十本の終らないうちに、段々、小さくなり、はては消えてゆく。敵の身体《からだ》がみえていたのは、本当に、スタアト、五六本の間で、忽《たちま》ち、グイグイッとなにかに引張られているような、強烈な引きで彼等《かれら》の身体は、ぼくの眼の前から、消えてゆき、あとには、山のように盛《も》りあがった白い水泡《みなわ》がくるくる廻《まわ》りながら、残っている。それも束《つか》の間《ま》、薄青《うすあお》い渦紋《かもん》にかわり、消えてしまった。しかし、ぼく達は、相手のない、不敵さで、ただ、漕いだ。
 あとで、みていた人達は、もう千|米《メエトル》あったなら、日本クルウは、英国を抜《ぬ》いていたかも知れない、と言ったそうです。それほど、ゴオルでは、へたばっていながらも、気魄《きはく》では、敵を追っていたらしい。四|艇身《ていしん》半の開きも、僅《わず》かにみえるほど、日本人の気魄は、彼等を追い詰《つ》めていたのでしょうか。ゴオル直前で、ブラジル・クルウを三艇身、打《う》っ棄《ちゃ》って、伊太利《イタリイ》に肉迫した、必死の力漕には、凄《すさ》まじいものあり、すでに、英伊二|艘《そう》とも、ゴオルに着いているだけ、外国人は、無駄《むだ》な努力に必死な、ぼく達を呆《あき》れてみていたらしい。最後のスパアト五百米では、日本のクルウは、身体の動きこそ、ちぢまれ、オォルは少しも、他のクルウに比べて、遜色《そんしょく》なかったという。しかし、ゴオルに入った途端《とたん》、ぼく達の耳朶《じだ》に響《ひび》いたピストルは、過去二年間にわたる血と涙《なみだ》と汗《あせ》の苦労が、この五分間で終った合図でもありました。
 そのときのぼく等の様子を、当時の羅府《ロスアンゼルス》新報が、こんなに報告しています。
※[#二重かっこ開く]夕刻のロングビイチは鉛色《なまりいろ》のヘイズに覆《おお》われ、競艇《レギャッタ》コオスは夏に似ぬ冷気に襲《おそ》われ、一種|凄壮《せいそう》の気|漲《みなぎ》る時、海国日本の快男児九名は真紅《しんく》のオォル持つ手に血のにじめるが如《ごと》き汗を滴《したた》らしつつ必死の奮闘《ふんとう》を続けて遂《つい》に敗れた。この日、我が稲門健児《とうもんけんじ》は不幸にも、北側の第一レインを割り当てられ、逆風と逆浪《げきろう》の最も激《はげ》しい難路を辿《たど》らねばならず、且《か》つ、長身に伍《ご》して、短躯《たんく》のクルウを連ね、天候さえ冷え勝ちで、天の利、地の利、人の利、すべて我々に幸いせず。頼《たの》むは、日本男児の気概《きがい》のみ、強豪《きょうごう》伊太利と英国を向うに廻し、スタアトからピッチを三十七に上げ、力漕、また力漕、しかも力|及《およ》ばず、千メエトルでは英国に遅《おく》れること五艇身、伊太利に遅れること三艇身、千五百メエトルに至《いた》るや、懸隔益々甚《けんかくますますはなは》だしく、英国と伊太利が二艇身半の差、日本は三艇身遅れて続き、更《さら》にブラジルが後を追う。
 が、最後の五百メエトルに日本選手は渾身《こんしん》の勇を揮《ふる》って、ピッチを四十に上げ、見る見る中に伊太利へ追い着くと見え伊太利の舵手《だしゅ》ガゼッチも大喝《だいかつ》一声、漕手を励《はげ》まし、五万の群集は熱狂《ねっきょう》的な声援《せいえん》を送ったが、時|既《すで》に遅《おそ》く、一艇身半を隔《へだ》てて伊太利は決勝線に逃《に》げ込《こ》んだ。
 決勝線突入後、他の三国選手が、余裕《よゆう》を示して、ボオトをランデングに附け、掛声《かけごえ》勇ましく、頭上高く差し上げたに引き替え、日本選手は決勝線に入ると同時に、精力全く尽き、クルウ全員ぐッたりとオォルの上に突っ俯《ぷ》し、森整調以下、殆《ほとん》ど失神の状態となり、矢野清舵手は、両手に海水をすくって戦友の背中に浴せ、比較《ひかく》的元気な松山五番もこれに手伝い、坂本四番の介抱《かいほう
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