《むち》から、いつも庇《かば》ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
 悶《もだ》え悶え、ぼくは手摺《てすり》によりかかりました。其処《そこ》は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終《しま》い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰《こし》の辺に、あたります。離《はな》れかかった足指には、力が一杯《いっぱい》、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間《しゅんかん》、ぼくが唾《つば》をすると、それは落ちてから水溜《みずたま》りでもあったのでしょう。ボチャンという、微《かす》かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々《ばかばか》しくなり、殊《こと》に、死ぬまでの痛さが身に沁《し》みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺《あた》りを、まえに戻《もど》しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
 そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読《たんどく》した小説の悪影響《あくえいきょう》もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が髪《かみ》をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、惹《ひ》かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査《じゅんさ》に呼び咎《とが》められました。それ迄《まで》は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見《りょうけん》も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が致《いた》しました。
 こんな夜|遅《おそ》く、学生がへんな恰好《かっこう》でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの傍《そば》にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる処《ところ》ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの蒼《あお》ざめた顔を、酒の故《ゆえ》とでも思ったのでしょう。照れ臭《くさ》くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床《とこ》をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕《まくら》もとの障子《しょうじ》一面に、赫々《あかあか》と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端《とたん》、襖《ふすま》ごしに、舵手《だしゅ》の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞《ふさ》がりました。
 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴《き》きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠《ねむ》ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主《ぼうず》、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫《ねこ》ッ可愛《かわい》がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未《ま》だ、ほんとに子供でした。
 ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言《こごと》一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴《やつ》があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌《おおあわ》てに、支度《したく》を始めました。
 あとになって、判《わか》ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきま
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