す。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽《さっそう》と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支《さしつか》えないでしょう、と言い置いてくれた由《よし》。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂《きゆう》は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣《はれぎ》とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
服は仮縫《かりぬ》いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆《しゅっぱん》の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。
三
出発の朝、ぼくは向島《むこうじま》の古本屋で、啄木《たくぼく》歌集『悲しき玩具《がんぐ》』を買い、その扉紙《とびらがみ》に、『はろばろと海を渡《わた》りて、亜米利加《アメリカ》へ、ゆく朝。墨田《すみだ》の辺《あた》りにて求む』と書きました。
それから、合宿で、恒例《こうれい》のテキにカツを食い、一杯《いっぱい》の冷酒に征途《せいと》をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも嬉《うれ》しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。
あとは、御承知《ごしょうち》のようなコオスで、大洋丸まで辿《たど》りつきました。文字通りの熱狂《ねっきょう》的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどに迄《まで》、サインを頼《たの》みにくるお嬢《じょう》さん、チョコレェトや花束《はなたば》などをくれる女学生達。旗と、人と、体臭《たいしゅう》と、汗《あせ》に、揉《もま》れ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの発作《ほっさ》を、我慢《がまん》している自分に気づきました。
勿論《もちろん》、こんなに盛大《せいだい》に見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、柵《さく》から、或《ある》いは屋根にまで登って、日の丸の旗を振《ふ》ってくれていた職工さんや女工さんの、目白押《めじろお》しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず涙《なみだ》がでそうになりました。
しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど猛烈《もうれつ》に、起ってきて、ぼくは教わったばかりの船室《ケビン》にもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。
昔《むかし》、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、後輩《こうはい》連も来ていてくれました。銅鑼《どら》が鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルと猿《ましら》のように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷|鎌倉《かまくら》での幼馴染《おさななじみ》の少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、波止場《はとば》の人混《ひとご》みのなかで、押し潰《つぶ》されそうになりながら、手巾《ハンカチ》をふっている老母の姿をみたときは目頭《めがしら》が熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプを抛《ほう》りましたが、なかなか母にとどきません。
女学生の一群にとび込《こ》んだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、漸《ようや》く、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプを握《にぎ》り、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を見廻《みまわ》すと、大抵《たいてい》の選手達が、誰《だれ》でも一人は、若い女のひとに来て貰《もら》っている、花やかさに見えました。
ぼく達のクルウでも、豪傑《ごうけつ》風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプを交《かわ》しています。殊《こと》に美男《ハンサム》な、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが綺麗《きれい》な女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福には違《ちが》いありません。が、母には勿体《もったい》ないが、娘《むすめ》さんがひとり交《まじ》っていて、欲《ほ》しかった。
その淋《さび》しい気持は出帆《しゅっぱん》してからも続きました。見送りの人達の影《かげ》も波止場も霞《かす》み、港も燈台も隔《へだ》たって、歓送船も帰ったあと、花束や、テエプの散らかった甲板《かんぱん》にひとり、島と、鴎《かもめ》と、波のう
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