ア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と愚《ぐ》にもつかぬ嘆声《たんせい》を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り裂《さ》けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎《こづらにく》さで、黙りかえっています。
それでいて、家につくと、彼は突然《とつぜん》、ここは渋谷とはちがう、恵比寿《えびす》だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、嘗《な》められたと思いましたから、こちらも口汚《くちぎたな》く罵《ののし》りかえす。と、向うは金梃《レバー》をもち、扉《ドア》をあけ、飛びだしてきました。「喧嘩《けんか》か。ハ、面白《おもしろ》いや」と叫《さけ》び、ええ、やるか、と、ぼくも自棄《やけ》だったのですが、もし血をみるに到《いた》ればクルウの恥《はじ》、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの肩《かた》を掴《つか》みます。振りきったぼくは、ええ面倒《めんどう》とばかり十銭|払《はら》ってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞《すてぜりふ》を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の閾《しきい》をまたいだのです。
気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、噛《か》みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに畳《たた》んで、風呂敷《ふろしき》が、上に載《の》っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵《どば》をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島《むこうじま》まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、憤《いきどお》りと悔《く》いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も更《ふ》け、人気《ひとけ》のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
ぼくは二階の廊下《ろうか》を歩き、屋上の露台《ろだい》のほうへ登って行きました。眼の下には、鋭《するど》い舳《バウ》をした滑席艇《スライデングシェル》がぎっしり横木につまっています。そのラッカア塗《ぬ》りの船腹が、仄暗《ほのぐら》い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、妙《みょう》に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草《あさくさ》の装飾燈《そうしょくとう》が赤く輝《かがや》いています。時折、言問橋《ことといばし》を自動車のヘッドライトが明滅《めいめつ》して、行き過ぎます。すでに一|艘《そう》の船もいない隅田川《すみだがわ》がくろく、膨《ふく》らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説《ロマンス》めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が暮《く》れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人《フレッシュマン》として、逞《たくま》しい先輩達に伍《ご》し、鍛《きた》えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々|無態《ぶざま》だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱《ぶじょく》されて抵抗《ていこう》の手段がないと諦《あきら》め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂《ダイハン》は怒《おこ》らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを止《や》めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢《ごうまん》な痩意地《やせいじ》にとって、自殺にもひとしかった。
それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣《しんらつ》であろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口《かげぐち》や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と威《おど》かす五番松山さんの凄《すさ》まじさ、そうした予感が、堪《た》えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の笞
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