ア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と愚《ぐ》にもつかぬ嘆声《たんせい》を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り裂《さ》けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎《こづらにく》さで、黙りかえっています。
それでいて、家につくと、彼は突然《とつぜん》、ここは渋谷とはちがう、恵比寿《えびす》だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、嘗《な》められたと思いましたから、こちらも口汚《くちぎたな》く罵《ののし》りかえす。と、向うは金梃《レバー》をもち、扉《ドア》をあけ、飛びだしてきました。「喧嘩《けんか》か。ハ、面白《おもしろ》いや」と叫《さけ》び、ええ、やるか、と、ぼくも自棄《やけ》だったのですが、もし血をみるに到《いた》ればクルウの恥《はじ》、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの肩《かた》を掴《つか》みます。振りきったぼくは、ええ面倒《めんどう》とばかり十銭|払《はら》ってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞《すてぜりふ》を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の閾《しきい》をまたいだのです。
気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、噛《か》みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに畳《たた》んで、風呂敷《ふろしき》が、上に載《の》っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵《どば》をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島《むこうじま》まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、憤《いきどお》りと悔《く》いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も更《ふ》け、人気《ひとけ》のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
前へ
次へ
全94ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング