庫《ていこ》には、もう、寝《ね》てしまった艇番|夫婦《ふうふ》をのぞいては、誰《だれ》一人いなくなっています。二階にあがり、念の為《ため》、押入《おしい》れを捜《さが》してみましたが、もとより、あろう筈《はず》がありません。
 もう、先程《さきほど》までの、享楽を想《おも》っての興奮はどこへやら、ただ血眼《ちまなこ》になってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい恰好《かっこう》で、自動車の路《みち》すじを、どこからどこまで、這《は》うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の戸棚《とだな》のグリス鑵《かん》の後ろになかったかなアと、溝《みぞ》のなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、直《す》ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、鉄亜鈴《てつあれい》や、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々《いやいや》、ひょッとしたら、あの道端《みちばた》の草叢《くさむら》のかげかもしれないぞと、また周章《あわて》て、駆けおりてゆくのでした。
 捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、駄目《だめ》だと諦《あきら》めかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、拡《ひろ》げてみなかったんじゃなかったか、という錯覚《さっかく》が、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。一縷《いちる》の望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷《しぶや》、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
 と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が顛倒《てんとう》しています。言い値どおりに乗りました。
 ぼくは、車に揺《ゆ》られているうち、どうも、はじめの運転手に盗《と》られたんだ、という気がしてきました。(彼奴《あいつ》に一円もやった。泥棒《どろぼう》に追銭とはこのことだ)と思えば口惜《くや》しくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この一癖《ひとくせ》ありげな、運転手に話してきかせました。
 すると、彼は自信ありげな口調で、「そりや
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