運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、二十《はたち》のぼくが、餞別《せんべつ》だけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。
その頃《ころ》、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑《ゆうわく》されていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞《どうてい》だという点に、迷信《めいしん》じみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳の清《すず》しい彼女《かのじょ》が、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、俺《おれ》でも、大人|並《なみ》の遊びをするぞと、覚悟《かくご》をきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。
宅《うち》に入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃに壊《こわ》れている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関《げんかん》へ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、皺《しわ》と雀斑《そばかす》だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を突《つ》ッこんで、出してみせようとしたが手触《てざわ》りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に訊《たず》ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い烟《けむ》りが、かすかなほど遥《はる》かの角を曲るところでした。「可笑《おか》しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の影《かげ》も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督《かんとく》に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と叱《しか》りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
艇
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