的な感情は、揚棄《アウフヘエベン》せよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくも棄《す》てたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの面影《おもかげ》がつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかに蔵《しま》い込《こ》もう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を呪文《じゅもん》として、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい※[#二重かっこ閉じ]
そう書いた、次の日の日記に、
※[#二重かっこ開く]かにかくに杏《あんず》の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと※[#二重かっこ閉じ]
もっと、ここに書くのも気恥《きはず》かしいほど、甘《あま》ったるい文句も書いてありました。で、ぼくは大切に、一々トランクの奥底《おくそこ》にしまい込んでいたのです。
ところが、ある日の午後、例によって、ベッドから、脚《あし》をぶらんぶらんさせ、トランクを台にして日記を書いていると、いま外に出たばかりの松山さんと沢村さんが、カッタアシャツ一枚で、ぬッと入って来ました。
ぼくは、あなたのことを、感傷的な形容詞で一杯、書き散らしていたところですから、なにか照れ臭《くさ》く、まごまごすると、慌《あわ》てて手帳をベッドの上の網棚《あみだな》に、抛《ほう》りあげ、そそくさ、部屋を出て行きました。
二十分程してから、もういないだろうと、恐《おそ》る恐る、扉《とびら》をあけると、松山さんは、ぼくのトランクに腰《こし》をかけたままでしたが、沢村さんは、ぼくの顔を見るや、立ち上がって、なにかを、ぼくの寝台に抛りあげ、そのまま、下段の自分のベッドに転がり、松山さんと、意味ありげに顔を見合せ、ぼくのほうを振《ふ》りかえります。
ぼくは、ばつが悪く、再び扉をしめ、出ようとすると、沢村さんが、「おい、大坂《ダイハン》」と呼びとめました。「え」といぶかるぼくに、「ああ、ぼくはあの女が好きでたまらない、か」と、ぼくの日記の一節を手痛く、叩《たた》きつけた。続いて、松山さんが、にこりともせず、怒《おこ》ったような口調で、「あア、好きで好きでたまらない、か」と言いざま、二人とも、声のない嘲笑《ちょうしょう》を、ぼくの胸にねじこむような眼付で、ぼくの顔をみながら、ドアをばたんと、乱暴に閉め、
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