足音高く、出て行きました。
ぼくはカアッとなり、屈辱《くつじょく》の思いにひかれ、ベッドの上から、紅いセエム革の手帳を、鷲《わし》掴《づか》みにし、一気に、階段をとんであがり、誰もいない、Cデッキの蔭《かげ》に行ってから、思いッきり手帳をとおくに投げつけました。
手帳は、空中で風を受け、瞬間《しゅんかん》止まったようでしたが、ふっと吹《ふ》き飛ばされると、もう、遥《はる》かの船腹におちていました。沸騰《ふっとう》する飛沫に、翻弄《ほんろう》され、そのまま碧《あお》い水底に沈《しず》んで行くかと思われましたが、不意と、ぽッかり赤い表紙が浮《うか》び、浮いたり、沈んだり、はては紅い一点となり、消えうせ、太平洋の藻屑《もくず》となった。
十一
愚《おろ》かにもその晩、ぼくはよく眠《ねむ》れませんでした。
翌朝、いつもの様に、朝の駆足《モオラン》[#「朝の駆足」にルビ]をやっているときです。あのときのオリムピック応援歌《おうえんか》(揚《あ》げよ日の丸、緑の風に、響《ひび》け君が代、黒潮越えて)その繰返し《リフレイン》[#「繰返し」にルビ]で、(光りだ、栄《はえ》だ)と歌うべき処《ところ》を、皆《みんな》は、禿《はげ》さんと蔭《かげ》で呼んでいる黒井コオチャアヘのあてこすりから、(光りだ、禿だ)と歌うのです。ぼくは黒井さんが好きでしたし、その若禿の為《ため》に、許婚《いいなずけ》を失ったという、噂話《うわさばなし》もきかされているので、唱《うた》う気にはなれません。
と号令が速足進めに変り、「一《オイチ》、二《ニッ》、一《オイチ》、二《ニッ》」と、黒井さんが調子を張り上げます。「四番、もっと手を振って」と注意され、ぼくは勢いよく腕《うで》を振り上げようとすると、可笑《おか》しなことに、手と足と一緒《いっしょ》に動き、交互《こうご》にならないのです。例《たと》えば、右脚《みぎあし》をあげると、自然に右腕が上がって、左腕が上がらないのです。無理に、互い違いに動かそうとすると、手が上がらなくなるばかりではありません。歩けなくなるのです。
その不恰好《ぶかっこう》なざまは、忽《たちま》ち、皆に発見され、どッと笑いものにされて了《しま》いました。
「頼《たの》むぜ、おい、女の尻《しり》追いかけるのもいいが、歩くのだけは一人前に歩いてくれよ」と森さん。「ボオト
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