言いきかせて、頑張《がんば》ったものです。
 それでいながら、例《たと》えば、舷側《げんそく》に沸《わ》きあがり、渦巻《うずま》き、泡だっては消えてゆく、太平洋の水の透《す》き徹《とお》る淡青さに、生命も要《い》らぬ、と思う、はかない気持もあった。
 船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の寝室《しんしつ》にあがり、寝《ね》そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。
※[#二重かっこ開く]ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと一緒《いっしょ》にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの皮膚《ひふ》も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえ触《さわ》ったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、凍《こお》るほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。
 どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。綺麗《きれい》かときかれても、判《わか》らない、と答えるだろう。利巧《りこう》かいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。
 ただ、二人でよく故里《ふるさと》鎌倉《かまくら》の浜辺《はまべ》をあるいている夢《ゆめ》をみる。ふたりとも一言も喋《しゃべ》りはしない。それでいて、黙々《もくもく》と寄り添《そ》って、歩いているだけで、お互《たが》いには、なにもかもが、すっかり解《わか》りきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に日射《ひざ》しをあびているように、そのときは暖かい。
 が目ざめてのち、ぼくはあのひとの幻《まぼろし》だけとともに、まわりはつめたい鉄の壁《かべ》にとりかこまれ漸《ようや》く生きている気がする。
 ぼくみたいな男でも、かりにも日本の Delegation として戦うのだ。自分の全力の砕《くだ》けるまで闘わなければ済まない。恋《こい》なぞ、という個人
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