》があったなら、あんなに皆から憎《にく》まれず、また、ぼくも苦しい想《おも》いをしなくても、済んだ、と思います。

     十

 それまでは皆《みんな》、ぼくを精々、嫉妬《しっと》するくらいで、別に詰問《きつもん》するだけの根拠《こんきょ》はなかったのですが、図《はか》らずも、ハワイで買った紅《あか》いセエム革の手帳が、それに役立つことになりました。
 ハワイを出て、海は荒《あ》れだしました。甲板《かんぱん》に出ても、これまで群青《ぐんじょう》に、輝《かがや》いていた穏《おだ》やかな海が、いまは暗緑色に膨《ふく》れあがり、いちめんの白波が奔馬《ほんば》の霞《かすみ》のように、飛沫《しぶき》をあげ、荒れ狂《くる》うのをみるのは、なにか、胸|塞《ふさが》る思いでした。船の針路を眺《なが》めると、二三間もあるような、大きなうねりが、屏風《びょうぶ》をおし立てたように、あとからあとから続いて来ます。
 さすが、巨《おお》きな汽船だけに、まア、リフトの昇降時《しょうこうじ》にかんじる、不愉快《ふゆかい》さといった程《ほど》のものでしたが、やはり甲板に出てくる人の数は少なく、喫煙室《スモオキングルウム》で、麻雀《マアジャン》でもするか、コリントゲエムでもやっている連中が多かったのです。
 そういう時、ぼくは独《ひと》り、甲板の手摺《てすり》に凭《もた》れ、泡《あわ》だった浪《なみ》を、みつめているのが、何よりの快感でした。あなたとは、もう遊べませんでした。で、ぼくは、あなたとレエスのことばかり、空想していました。ボオトは、勝負はとにかく、全力を出し切らねばならない。全力を出し、クルウが遺憾《いかん》なく、闘《たたか》えたとします。そうしたら日本に帰って、あなたと堂々と結婚《けっこん》できると思う。
 そんな風に楽しい空想を描《えが》いているときでも、絶えず、先輩達の眼、周囲の口が、想われて、それがなにより厭《いや》でした。こうした悪意に対して、ぼくは、それを、じっと受け応《こた》えるだけで、精一杯《せいいっぱい》でした。
 当時、ぼくは二十|歳《さい》、たいへん理想に燃えていたものです。なによりも、貧しき人々を救いたいという非望を、愛していました。だから、その頃《ころ》、なにか苦しい目にぶつかると、あの哀れな人達《プロレタリアアト》[#「哀れな人達」にルビ]を思えと、自分に
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