らまた、バック台練習は、以前のように口喧《やかま》しく、先輩達から怒鳴《どな》られるようになるし、怒鳴られるほど、またギゴチなくなって行きました。
こう書くと、いかにもぼくが、弱々しいだけに見えますが、先輩達だとて、ぼくが本当に弱く降参しきっていれば、あれ迄《まで》いじめなかったでしょう。加えて、ぼくには、文学少年にありがちな孤独癖《こどくへき》がありました。それも生意気だとか、図々しいとか見られていたのでしょう。実際、図々しい処もありました。あなたから、この手記の初めに書いた、杏《あんず》の実を貰ったのは、その問題があった日の昼のことでしたから――。
とにかく、その日の昼は、もうあなたと遊べなくなった淋しさと、口惜《くや》しさから、殆《ほとん》ど飯も食べずに、トレイニング・パンツに着更《きが》え、誰《だれ》もいないB甲板をうろついていると、ひょッくりあなたと小さい中村|嬢《じょう》に逢いました。
中村さんは、小さい唇《くち》をとがらせ、「うち、つまらんわア、もう男のひとと、遊んではいけない言うて、監督《かんとく》さんから説教されたわ。おんなじ船に乗ってて、口|利《き》いてもいかん、なんて、阿呆《あほ》らしいわ」ぼくも、合槌《あいづち》うって「すこし、変ですね」と言えば、あなたも「ほんとうにつまらんわア」中村嬢は、益々雄弁《ますますゆうべん》に「ほんとに嫌《いや》らし。山田さんや高橋さんみたいに、仰山《ぎょうさん》、白粉《おしろい》や紅をべたべた塗《ぬ》るひといるからやわ」と、なおも小さな唇をつきだします。ぼくは只《ただ》、中村さんに喋《しゃべ》らしておいて、心のなかでは、つまらない、つまらない、と言い続けていました。
やがて、あなたは、剽軽《ひょうきん》に、「こんなにしていて、見つけられたら大変やわ、これ上げましょ」と、ぼくの掌《てのひら》に、よく熟《う》れた杏の実をひとつ載《の》せると、二人で船室のほうへ駆《か》けてゆきました。ぼくも、杏の実を握《にぎ》りしめ、くるくると鉄梯子《てつばしご》をあがって、頂辺《てっぺん》のボオト・デッキに出ました。
太平洋は、日本晴の上天気。雲も波もなく、ただ一面にボオッと、青いまま霞《かす》んでいます。ぼくは、手摺《てすり》に凭《もた》れかかって、杏を食べはじめました。甘酸《あまず》っぱい実を、よく眺《なが》めては、食
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