スは直ぐ、真紅《まっか》な顔になって、部屋に帰ってしまいましたが、そのときぼくがあなたを撲《なぐ》りつけたい腹立たしさで、一隅《いちぐう》から笑いもせずに睨《にら》みつけていたのを御存知ですか。
 ぼくはあなたへの愛情に、肉体を考えたことがないと前にも書きました。帰朝してから随分《ずいぶん》色んな歓迎会も催《もよお》して頂き、酔ったあとで友達同士、女遊びをする機会も多かったのですが、ぼくはどんな場合でも、芸者なり商売女に、「ぼくにはだいじな女《ひと》がいるから、悪いけれど気にしないで」とまともな顔で断って、指一本、彼女達《かのじょたち》に触れたことはありませんでした。
 帰って暫《しばら》くして、銀座のシャ・ノアルにクルウが揃《そろ》って行ったことがあります。初めに書いた、嘗《かつ》てぼくの童貞《どうてい》とやらに興味を持ったN子という女給もいれば、松山さんも沢村さんの女達もいるカフエでした。ぼく達が入って行くと、マスタアが挨拶に来るは、女給が総出で取り巻くは、大変なものでした。
 ぼくはその頃《ころ》むやみに酒を飲むようになっていましたから、一人でがぶがぶと煽《あお》り、手近に坐《すわ》っていた京人形みたいな女給をちょっと好きになって、「君の名前は」とか訊いているうち、いきなり背後から生温かい腕《うで》がペたっと頸《くび》のまわりに巻きつきました。振返《ふりかえ》ると熱柿《じゅくし》みたいな臭《にお》いをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひとと凄《すご》かったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。「こんなお婆《ばあ》ちゃんじゃ、嫌《きら》い」とN子はぼくの頸にぶら下がったまま、ぼくの膝《ひざ》に坐り、白粉《おしろい》と紅の顔をぼくの胸におしつけます。
 実をいうとぼくは肉体の快感もあって、こういう酩酊《めいてい》の為方《しかた》も好《い》いなあ、と思いかけていましたが、便所に立った虎《とら》さんが帰って来て、「オイ表に出てみろよ、大変な貼出《はりだ》しが出ているぜ、ハッハッハ」と豪傑《ごうけつ》笑いをするので、清さんと一緒に出てみますと、入口に立てかけた大看板に(只今オリムピックボオト選手一同御来店中)と墨痕《ぼっこん》鮮《あざ》やかに書いてあります。
 しばらく唖然《あぜん》と突っ立っていたぼくは、折から身体を押《お》して行く銀座
前へ 次へ
全94ページ中91ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング