兼用《けんよう》になっている、その部屋で、ぼくは冷っこい便器に、腰《こし》を掛《か》けると、封筒を裏返してみました。ただ、K生より、となっています。ぼくはてっきり、あなたからだと信じこみ、胸|躍《おど》らせ、封を切る手も、震《ふる》わせ、読み下して行くと、なんだ、がっかりしました。と言っては悪いでしょう。船で知り合った、中学の先輩《せんぱい》、Kさんからの親切な激励状《げきれいじょう》だったのです。再び、表の芝生にでた、ぼくの顔は蒼褪《あおざ》めていたかも知れません。坂本さんから、また、「大坂《ダイハン》、顔色変ったね」とひやかされました。
二三日|経《た》って、午後の練習を終え、ヘンリイ山本君の運転する、ロオドスタアの踏段《ふみだん》に足を載《の》せ、合宿まで、帰ってくると、庭前の芝生に、花やかな色彩を溢《あふ》れさせた、女子選手の人達が、五六人、来ていて、先に帰ったクルウの連中に、囲まれ、喋《しゃべ》り合っているのが、ハッと眼につきました。ぼくは、もう、途端《とたん》に、自動車から、飛び降りたい位、気持が顛倒《てんとう》しました。
しかし、直《す》ぐ、あなたの来ていないのに気づくと、笑いかける内田さん、中村|嬢《じょう》の顔にも答えず、真《ま》ッ赧《か》な顔をして、そのまま宿舎にとび込《こ》みました、と、後ろから、花やいだ笑い声が、追い駆けてきて、「ぼんち、秋っペがいないんで、腐《くさ》ってるのね」確か、中村嬢の声でした。続いて東海さんの低音《バス》が、小声でなにか言っています。また、なにかぼくの蔭口ではないかと、焦々《いらいら》している耳に、内田さんの声が、「熊本さん、この頃、とても、しょげているのよ。可哀《かわい》そうよ」「ぼんちのことで」と誰か女のひとが、訊《き》き返している様でした。ぼくは耳を塞《ふさ》ぎ、声を大にして、「煩《うる》さいッ」とでも、怒鳴《どな》りつけてやりたかった。続いて、聞えてきたのは、太い調子のひそひそ声で、なにか陰険《いんけん》な悪口か、猥褻《わいせつ》な批判らしく、無遠慮に響《ひび》いてくる高らかな皆の笑い声と共に、ぼくは又《また》、すっかり悄気《しょげ》てしまったのです。
女の人達が帰ってから、ぼくの狸寝《たぬきね》をしている部屋に、松山さんと、沢村さんが入って来ました。松山さんは、殊《こと》の他《ほか》、御機嫌《ごきげん
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