ボオトを漕《こ》ぐことだけに夢中になれたのでした。

 練習帰りのある日。いつもの様に、独りとぼとぼ、歩いていると、背後から、飛ばしてきた古色|蒼然《そうぜん》たるロオドスタアがキキキキ……と止って、なかから、噛《か》み煙草《たばこ》を吐《は》きだし、禿頭《はげあたま》をつきだし、容貌魁偉《ようぼうかいい》な爺《じい》さんが、「ヘロオ、ボオイ」と嗄《しゃが》れた声で、呼びかけ、どぎまぎしているぼくを、自動車に乗れ、と薦《すす》めるのです。遠慮《えんりょ》なく、乗せて貰《もら》うと、目貫《めぬ》きの通りにドライブしながら、ぼくの胸にさした日の丸のバッジを見詰《みつ》め、「俺《おれ》は日本が好きだ。若いとき、船乗りだったから、横浜や、神戸《こうべ》に、度々《たびたび》行ったよ。ゲイシャガアルは素晴しいね」とか言い、皺《しわ》くちゃの顔いっぱいに、歯の疎《まば》らな口を開け、笑ってみせます。とうとう、煙草の脂臭《やにくさ》い鼻息に閉口しながらも、親切な爺さんの怪《あや》し気な日本回想記をきかされ、途中《とちゅう》でアイスクリイムまで奢《おご》って貰い、合宿まで送り届けられたのでした。
 こうして、ぼくはあなたのことを忘れ、只管《ひたすら》、練習に精根を打ちこんでいた頃、日本から、初めての書簡に、接しました。
 合宿前の日当りの好《よ》い芝生《しばふ》に、皆《みんな》は、円く坐って、黒井さんが読みあげる、封筒《ふうとう》の宛名《あてな》に「ホラ、彼女《かのじょ》からだ」とか一々、騒ぎたてていました。東海さんの処《ところ》へは、横浜で、テエプを交した女学生七人から、連名のファン・レタアも来たりしました。松山さんにも、シャ・ノアルの女給さんから、便りがあり、皆に冷かされて、嬉しそうでした。
 その中、ぼくの名前でも一通、「おや、これは日本からとは違《ちが》うぞ」とぼくを見た、黒井さんの眼が、心なしか、光った気がしました。と、坂本さんが、ぼくの肩《かた》を叩《たた》き、「秋子ちゃんからじゃないか」と笑いながら、言います。皆の顔が、一瞬《いっしゅん》、憎悪《ぞうお》に歪《ゆが》んだような気がしました。我慢《がまん》できないような厭《いや》らしい沈黙《ちんもく》のなかで、ぼくは手紙を受取ると、そのまま、宿舎に入り、便所に飛びこんで、鍵《かぎ》を降しました。
 風呂場《シャワルウム》と
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