。日本でも方言としては、「またごんせ」とか大切にとかいった意味の別れの言葉が多いようだ。しかし代表的な別離をいう日本語が、「さようなら」だけに限られていることは、日本の死者のひとりとして遣切れぬ思いで抗議したい。「さようなら」と白々しく片づけられては浮ばれぬ。
 どんな死者でも自分の愛する人たちにいつか逢えないかと、ひそかな願いをもち、墓の片隅に眠っている筈だ。マレエ語では別離の挨拶に、出てゆくひとが、「スラマトテンガル」(この地にとまることに幸福あれ)といい、送るひとは「スラマトジャラン」(旅ゆく人に幸福あれ)との言葉を送るとかきいた、日本でも万葉時代にはこうした素朴な別離の言葉があったのだろう。(幸《さき》ありませ)との一句を相聞、覊旅《きりょ》の歌の処々にみうけた気がするし、「われは妹想う、別れきぬれば」の感慨に、ぼくは単純卒直な惜別の哀愁を感ずる。
 それに比べ、「さようなら」は冷たすぎる。別離の日本語としてこれを廃止し、新しい言葉を発明しよう。ぼくはそんな目的で、この小説を書きだしたのではない。「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会が
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