々が川岸に匂う青い川上に、白いボオトを浮べ、ぼくが力漕して汗になったので、何気なく上半身、裸体になったら、差向いのそのひとがパッと顔に紅を散らし、身悶えして、「厭よ、恥かしいわ、早く襯衣《シャツ》を着て頂戴」と乱暴に、ぼくの裸の胸をつきまくったのも忘れられぬ。
 処で当時の、否、現在でも、ぼくは幼児に対するとできるだけ彼を傷つけまいとし、偽善的にさえなる。要するにぼくは人類の未来に漠然とした信仰を持っているので、幼児をぼくの汚れた手で傷つけてしまうのが恐ろしい。幼児はぼくにとりタブウみたいな存在に思われるのだ。その時もぼくはそのひとを妻としたいほど好きだったが、そのひとに脊椎カリエスの七つの男の子があるのが、そんなぼくの愛情を躊躇させた。その間に、前の夫がそのひとの勤め先を探しだし、母子で帰って欲しいと手を差出していると、ぼくはそのひとから相談されて子供の為にはどうしても本当の父親が必要だと思い、愛情の最高表現は片想い、自己犠牲になると反射的に考え、気の進まぬらしいそのひとに、ぼくは口を酸っぱくして、(子供の為に我慢しなさい、貞婦は二夫に見えず)なぞ古臭い封建的道徳まで説き、ムリヤリ、そのひとと子供を前の夫のもとに返してしまった。
 そのひとに喫茶店の一隅で、「さようなら」をいうのにぼくはたいへんな勇気を必要とした。ぼくは最後まで云うまいと思っていた「実はあなたさえ好ければ、お子さんがあっても結婚したかった」という内心の秘密をうろたえて告白し、そのひとに手放しで泣かれ、「なぜ、それをもっと早く云ってくれなかったの」と身悶えされ、ぼくは尚更、「さようなら」が云い難くなった。而し結局、自分を犠牲にすればそのひとたちの家族が幸福になると確信できた、二十四歳のぼくの単純な虚栄、或いは偽善的な人間信頼から、ぼくはそのひとに近くの駅頭で、「さようなら」をいった。その人は別離の哀しさに興奮し、汽車の切符をとんでもない処にしまって忘れたり、トランクの蓋を何度も開けたりしめたりして、中の品物をこぼしたりした揚句、汽車がついたので泣き顔で何度もぼくのほうを振返りながら、子供の手をひき、プラットフォムを走っていった。その人が子猫の憂い顔で最後にぼくに云った言葉は、やはり、「では御免なさいね。さようなら」なのだ。
 それから三月も経たぬ中に、ぼくはそのひとのいた酒場に飲みにゆき、そのひとの旧朋輩の女給から、(そのひとが子供と帰っても、夫の画家は依然として前の女流画家と親密にしていて、家庭は地獄みたいだったこと。その為、脊椎カリエスの男の子は帰宅して一月ほどした或る朝、縁側から庭石に落ちて死んだこと。そうしたショックからそのひとも、奔馬性肺結核とかで十日足らずの入院中に死んだ)ときかされ、呆然としてもう一度そのひとに心の中で、「さようなら」をいった。そのひとは最後に、「御免なさい」とぼくに謝まる言葉を習慣として無意識に残したが、本当に謝まる必要があったのは、男性としてのエゴチズム、単純な虚栄なぞから、そのひとが好きだった癖に自分の腕に止めようとしなかったぼくのほうだと実感したのである。
 当時のぼくは未だにコミニズムの理想を信じながらも、文学的にはドストエフスキイ、シュストフが流行し、社会的に軍部独裁、戦争激化の時代相に、自分の生の行動哲学として、ヒュウマニズムと日本の封建倫理や浅薄なニヒリズムがゴタ混ぜに身についている奇怪さだった。ぼくは戦死する前に女性の愛情を知りたく、恋愛、結婚にアセる気持でいながら、一方では平気で戦争未亡人を残そうとする自分の我儘《わがまま》な気持を軽蔑していた。ぼくは有閑令嬢のタイピストの女性的な我の強さを嫌った癖に、自分の好きなひとをただ不幸に死なせた自分の男性としての我の強さには平然として堪えられたのだ。胸の底には永遠の女性に憧がれる懸命な祈りまであったのが、気持の表面では、なにどんな女も似たり寄ったりで、結婚はくじびきみたいなもの、どうせ空しく亡びる自分の青春なら、いちばん貧しい娘に与えてやれと気短かに考え、当時、下宿していた家の平凡な娘と野合のようにして一緒になってしまった。
 その娘は幼くして父を失い、親類の家を転々として育てられ、とに角、小学校を出ると素人下宿の母のもとに帰り、家事を手伝いながら一銀行の女給仕となり、それ迄に勤続約十年、事務員に昇格し算盤《そろばん》の名手として銀行内に名高い、というような前半生から、ぼくは彼女が苦労しぬいてきた娘として、ぼくを献身的に優しく、ぼくの知識才能も盲目的に敬愛してくれるだろうなぞ、都合の好いことばかり夢想し、両方の肉親の反対も押切り、形だけでも正しい神前結婚をしたのだが、一緒になって一月も経たぬ中、ぼくは自分のおめでたい空想が全て裏切られたのを知った。
 貧しくしいたげら
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング