分の妻子の、ぼくを失った後の運命を思うのがいちばんの苦痛だった。だがぼくは、(妻子には彼ら夫々の、自分と違った運命がある。その運命に任せておこう)と単純に信じ、自分は工場の一社員寮の舎監となり、妻子を伊豆の田舎に疎開させた際、やはり彼らにも心中であっさり、「さようなら」を告げておいたのである。
その時のぼくの運命主義、一度、妻子に告げた、「さようなら」の別離感が、敗戦後すでに四年経った現在のぼくの心中に未だ尾を曳いていて、最近、ぼくは自分の家庭を解体させるような愚行を演じた際にも、それがある程度、ぼくの心理を左右したものである。誇張していえば、あの戦争でぼくは余りにも度々、親しい人たちに冷たい「さようなら」をしてしまったので、別離の悲哀に無感覚になったばかりか、緊張病の狂人が自分の糞尿を愛惜するような倒錯心理に似て、自分にいちばん苦痛を与える別離の悲しさを、苦しい故に反って愛するようになったともいえるのだ。
これ迄、ぼくは肉親や男の友人たちとの、「さようなら」ばかり述べてきたが、ここで最も遣切れぬ異性たちと、「さようなら」を告げてきた苦しい思い出を語ることにしよう。小説の本質が恋愛の叙事詩にあるとの定説をぼくは疑えない。幼児から多病で現実の世界に臆病だったぼくは、生きる楽しさを読書とその空想によってのみ知り、英雄豪傑忍術使の講談本に倦きた頃、所謂円本流行時代が始まったので、明治以降の日本近代小説や世界の古典名作とされるものにも親しみ、いつの間にか、生きることは恋すること。男は永遠の女性によってのみ救われる。一生に一度、真剣に愛し愛される恋人を得たいと秘かな烈しい望みを抱くようになった。
けれども敗戦前まで、ぼくは始めには政治意識が強すぎ、政治から脱落後は自意識が烈しすぎて、本当に心と肉体の一致するような恋の経験を持てなかった。ぼくは昭和十一年、二十四歳で早まった結婚をする前後、恋人とも呼べる三人の女性を友達に持っていた。ひとりは会社のタイピストだったが、彼女は誇りの高い有閑令嬢で、専門学校を出ている自分の学識をひけらかし、背の高い文学青年のぼくが好きで堪らぬ癖に、なんとかぼくのほうから求愛させようと、小鼻をヒリヒリさせ、種々そうした機会を作るのが、ぼくには小癪に障ってならず、彼女の誇りを傷つける快感の為にも、彼女を棄て、小学出の無知な下宿屋の娘だった平凡な女を妻に選んでしまった。ぼくの結婚後、この小柄なタイピストは自棄になったようで、二、三の大学生に肉体を許したのち、ふいと満州国の騎兵大尉とかに嫁ぐ為、会社を止め大陸に渡っていったが、ぼくは彼女のエゴチズムに満ちた小鼻を張り、眼を光らせた表情に男性本能としての嫌悪まで感じていたので、(男友達の場合はお互いの自我を意識してぶつけまいとするのでそんな嫌悪はないが)そうした彼女との「さようなら」には反って開放感が伴っていた。
もうひとりの女友達は酒場の女給で、今でも高名な画家の夫が同じく高名な女流画家と恋し合った為、棄てられた妻であり、脊椎カリエスの七つの弱い男の子を抱え、その酒場の二階に寝泊まりしている惨めさだったが、ぼくはそのひとを妻にした娘より遙かに好きだった。子猫みたいにイタズラっぽく精力的なその顔は一面の雀斑《そばかす》で、化粧も棒紅が唇の外にはみだすほどグイとひく乱暴さだったが、外見ひ弱そうな肉体が裸になると撓やかで逞ましいのも好きだったし、常に濡れているような睫《まつげ》の長い黒瞳に情熱が溢れているのにも惹かれていた。それに一度、共産主義を棄てた自分を罪人のように恥かしがっていたぼくは、そのひとが棄てられた妻という傷を持っていて、その傷を正直に痛そうに見せ、ぼくに撫ぜて貰いたがっている風情にも、哀しく懐かしい共感が持てた。そのひとは娼婦と母性の本能を合せて持っているという点で、ぼくには憧がれの女性のように思われたのだ。ぼくはそのひととピクニックに出かける電車の席で無造作に足を組んだら、靴下を穿いていないのがバレ、前のタイピストならそれに顔をしかめ、妻にした娘なら見て見ないふりをするのに決まっているのが、そのひとは忽まち無邪気に大笑いし、次の停車場でぼくの手を引張るようにして降り、近くの洋品店で、濃紺のソックスを買い、その場で子供にするように穿かせてくれた思い出も、イヤになるほど懐かしい。
ぼくはそのひとが娼婦じみた悪趣味の厚化粧をして、大きな花束を買い、バスの衆人環視の中で、その花束に顔をつっこみ、「まあ好い匂い」と童女のような泣き声をあげたのも忘れられぬ。ぼくは当時、女性の生理のどうにもならぬ不潔さにそろそろ気づいていたので、そのひとがひたむきに花を愛する心理のあやも直感的に分る気がし、美しく思われるまでに哀しかった。更にそのひとと晴れた日、白いアカシアの花
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