長から、「煩さいぞッ」と呶鳴《どな》られるほど声高に語り止めなかったのが、段々、人を殺したり殺されたりの血腥《ちなま》ぐさい禁欲耐忍の日々が続く中、岡田がぼくに返事さえ云い渋るほど無口になってゆくのに気づいた。
 そんな岡田はある朝、前の野営地に自分の飯盒《はんごう》をおき忘れ、分隊長に両ビンタを食い、その昼、みんなの食事をぼんやり眺めさせられるような刑罰を受けた。翌朝、岡田はまた防毒面に雑嚢《ざつのう》をなくしているのを分隊長に発見され、銃床で思いっきり尻ぺたをこづかれ、六尺豊かの大男が鼠のようにキュウキュウ泣いていた。二十貫近くの肉体が見る間に骨と皮だけになり、張切っていた特号の軍服もダブダブボロボロ、紅顔|豊頬《ほうきょう》、みずみずしかった切長の黒瞳も、毛を毟《むし》られたシャモみたいな肌になり顴骨《かんこつ》がとびだし、乾いた瞳に絶えず脅えた表情がよみとられた。ぼくは自分自身さえ昼夜を分たぬ戦闘行軍に、食欲と睡眠の快楽だけに支えられ、やっと生きている時だったから、そのような岡田の急激な衰弱振りに同情するよりも、動物的な優越感や軽蔑、憎悪の本能感情が強かった。次の朝、更に岡田は故意でもあるかのように鉄兜と巻脚絆をどこかに棄てていた。
 髭ッ面の分隊長は、「気合いを入れてやる」とそんな瞳の吊上った岡田を素裸にし、古参上等兵とふたりで、掌や足の甲、両肩、下ッ腹を紫色に腫れ上るほど革バンドで叩き撲ってから、近くの冷たい泥沼に追いこんだ。今は歯だけが馬みたいに大きく白い岡田が、紫色の歯茎をむきだし、全身を震わせ、それでも金玉だけ大切そうに両手で押え「御免なさい。許して下さい」と喚きながら厭々、水に両肩を沈めるのを、ぼくたち兵隊は弱者への憎悪から反って面白がって見物していたのだ。岡田はその日の行軍の途中、いつの間にか帯革ごと剣や弾盒も棄て、兵隊の魂、陛下の銃と事毎に強調される小銃さえなくしていた。そんな岡田が分隊の最後尾をよろめき、辛うじて歩いている様子は、兵隊というより完全な乞食みたいにみえ、更に狐憑《きつねつき》じみたその顔の表情は誰がみても狂人、被害妄想的抑鬱症患者としか思えなかった。岡田は片端から兵器を棄てることで全身で戦争を拒絶したのであろう。理由なく放火殺人傷害強盗強姦を行なう戦争こそ、常人の神経に堪えられぬ狂的行動であり、それを拒否して気の狂った岡田とそれに堪え或いはそれを喜び、それを拒絶した岡田に惨忍なリンチを加える分隊長たち、更にそれを面白がって眺めていくぼくたちの中、誰が真の狂気であろうか。ぼくは戦争という狂気に堪えられなかった岡田の神経に、今ではむしろ健康なものを感じるのだ。
 処で自分の功績だけを気にする分隊長は、岡田が剣も銃も棄て、乞食みたいな格好でヒョロヒョロと歩いているのをみると、そんな兵隊を上官にみられたら、叱りつけられた上、点数も薄くなると、カッと上気した様子で、忽まち走り戻り、銃を逆手に持ち直し、「このド阿呆が。くたばれッ」と岡田の左耳から頬にかけ、力一杯、横なぐりした。岡田は口と鼻を血だらけにし、キリキリ舞いで、道路の真中の泥濘《ぬかるみ》に大の字に倒れた。「お母さん、さようなら」岡田は虫の鳴くようにそう呟き、そのままピクリとも動かなくなる。赤紫に膨脹した左耳に毒々しい銀蠅が群がってたかりだした。ぼくたちはそのまま岡田の死体を見棄て、行軍を続ける。その時、ぼくたちは後衛中隊の最後尾の分隊だったから、岡田の死体は中国人たちが埋めてくれぬ限り、道端で腐り、野良犬や鴉《からす》、蛆《うじ》などに食われていったことであろう。ぼくは暫く行ってから振返り、岡田の死体が仰向けに倒れているのを確かめ、心の中で岡田の霊にあっさり、「さようなら」をいった。
 約二カ月の野戦生活の間に、ぼくはこのように非情な「さようなら」を幾多の戦友たちに告げてきたものだが、帰還して、軍需工場に勤め太平洋戦争となり、それが日本の敗色濃く、しきりに東京空襲が行なわれるようになると、ぼくは銃後にいても多くの周囲の同胞に、このように非情な、「さようなら」を告げる機会が多くなった。その人たちの中には例えば、自分の工場の女子寮が爆弾の直撃を受け、三浦三崎から勤労動員で来たばかりの、三十人もの無垢な娘たちが、同期に入社したぼくの友人の童貞の舎監と共に即死したようなむごたらしい思い出もある。而しこうした際にも、止むを得ぬ運命主義者になっていたぼくは、(それを彼らの宿命とのみ感じ)、極めてあっさり、「さようなら」とだけ云ってきたものだ。当時ぼくたちは、毎日のように死者を眺め、更に前線の友人たちの玉砕をきかされていたので、自分たちにも明日知れぬ命との実感があり、その場合、ぼくは所有した時から既にその存在を重荷とし、いたずらに苦労ばかりさせてきた自
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