れてきた娘が、高等教育を受けた、未来のある青年に愛され正式な結婚をしたことに、救われた如き感謝があり、献身的盲目的にその青年を愛するというのは、やはり通俗小説の嘘で、現実的には貧しく無知な女はそれだけ世の中から傷つけられ歪みっぽく疑い易い野良猫じみた性質になっていて、ぼくはそんな妻の復讐心《ふくしゅうしん》に自分の才能を無心に誇っては噛みつかれ、不用意に彼女を救ったと仄《ほの》めかしただけでも爪をたてられ、一日として彼女を妻にしたことに悔いのなかった生活はなかった。そこに戦争、出征が続いたので殺伐とした軍隊の雰囲気から、ぼくのほうにそんな妻でも稀に逢ったり、慰問品を送られると天使のように優しい錯覚があり、妻のほうにも、出征軍人の妻との無知な悲しみと誇りがあり、ふたりの家庭の破綻《はたん》が一時、防がれたばかりか、出征や疎開の前後に子供が四人まで生まれる結果となったが、さて敗戦になり、平和な日を迎えると、十年前になら恐らくふたりだけの別離で済んだ家庭の悲劇が、戦いの嵐に目かくしされ、十年いきのばされたお蔭で、四人の子供たちという堪えがたい犠牲者を伴なう大破局に発展してしまった。
 敗戦と同時にぼくは会社を馘《くび》になったが、宿望の文学生活だけにうちこめると気負いたった気持だったのに、苦労しぬいてきた女として妻は貧乏と冒険を憎悪し、ぼくのペン一本の生活力を危ぶみ、しきりに再び就職を勧め、ぼくの気持に水を差した。そんな時、ぼくは戦争時代に自分の救いとして信じていた(自分と妻子の宿命は別々)との運命感がよみがえり、親しい人々から無感覚になるほど多くの「さようなら」された追憶から、ぼくは滑稽にも、あの西行法師みたいな戦乱の世の強い無常観に支えられ、子供を縁から蹴落し、出家遁世してこの世を漂泊したい望みに憑《つ》かれるのだったが、それは半年ほど経ち、ぼくが共産党に入り、N市の地区委員会事務所の常任を引受け、妻子と別々の独身生活をすることで、その望みの一端が果されることとなった。
 そして約一年。ぼくは自分の妻子や同胞、人間に対する愛情が、戦争の血に汚されてきた為か、ともすれば不信から憎悪に変ずるのをどうしようもなく、再び裏切り者、罪人の意識のほうが快ろよい倒錯心理で、党から離れ、暫く落着き場所のないまま、妻子のもとに返っていた。だがぼくは、戦争中、この妻子たちに、「さようなら」を告げた記憶が生々しいし、妻に永遠の女性をみることに絶望したので、機会さえあれば、妻子とは別に自分の運命を開拓し、孤独な幸福を掴みたい思いに駆られている。丁度その頃、ぼくは上京して或る夜、リエという不幸な女と親密になった。
 リエは戦争未亡人のひとりだが、姑《しゅうとめ》、小姑の意地の悪い婚家から、主人戦死の公報のくる前にとびだしたので、実家からも義絶された状態になり、焼け跡の防空壕に女ひとり暮らしのパンパンだったのだが、純情な旧敵国の一青年に、彼女の愛情のひたむきなのを愛され、四畳半に六畳、台所に湯殿までついたバラックを建てて貰い、そこで約一年、幸福な愛の巣を営んでいたのが、近くの日本人のヤキモチからその筋に密告され、リエと相愛の青年は強制的に本国に帰され、リエはダンサアや女給で生活しながら、再び次第にその心や身体を汚している時だった。
 ぼくはそんなリエに初恋のひととも云える、例の高名な画家の夫に棄てられた女の面影を偲んだ。リエも母性愛に娼婦の愛情を合せて持っているぼくの好きなタイプの女だった。リエも自分の男や時代に傷つけられた傷痕を隠さずにみせ、それをぼくに愛撫されたいと願う。それはぼくの男としての自尊心を満足させるのと同時にぼくの罪人意識のいたわりにもなるのだった。リエはそのひとと違い、化粧や愛情の表現のカン処を知った巧みな女だったが、小柄なエネルギッシュな肉体や、成熟した女の生理に童女の信頼を兼ねている処が、そのひとに似ていた。更にそのひとに対しては、夫や子供があるのと、ぼくの若い潔癖さから、肉体の快楽を慎んでいたが、リエの場合は、中年男の肉欲に対する強い信仰があり、それから結ばれてゆき、お互いが自分たちの肉体の適応性に飽満した上で、心も結ばれていったので、ぼくはその汚された女のリエに、生れてはじめて、心と身肉の一致した恋をしたと思う。
 妻子と違い、いつ「さようなら」するか分らぬ女と思うと、ぼくは余計にリエに惹かれ、子供たち四人の未来を案じ、二六時中クラクラする不安を感じながらも、その不安の強い割合いでリエを抱擁する快感が強く、ぼくはズルズルベッタリに足かけ三年、妻子のもとには生活費を送るだけで、リエと同棲してしまった。リエのぼくに対する爆発的献身的な愛情の裏側には、汚された女としての彼女の病的に強い自己愛が潜んでいるのもみせつけられて遣切れない気持に
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