るだけの養生《ようじょう》をさせて上げて下さい」
 平吉は黙っていつまでも息子の顔を見ていた。
 翌日から一男は、誰の手も煩《わずら》わさずに母親の看護を一人で引受けた。病人のある家とも見えず、明るい笑声が絶えなかった。そのためかどうか、おそらく一男が帰って来たという安心のせいもあったのだろう、母の病気はほんの少しずつよくなって行くように見えた。
 しかし、石山一家は、いつまでこうしているわけには行かなかった。すみ[#「すみ」に傍点]が工場で稼《かせ》いで来る金が入らなくなった。一男の送金も来なくなったわけだ。その上、病人のために不断よりは余計に費用がかさむのだ。
 ある晩、子供たちが六畳の方で寝静まった時、平吉と一男とは長いこと相談した。いま一男が船へ乗って海へ出るようなことをすれば、また病人はわるくなるにきまっている。だが一男が今のように看護婦の代りをしていたのでは、病人の薬代は愚《おろ》か、米代もつづかないのだ。
 翌日一男は父親について、彼が今働いている建築場へ行って見ることになったのであった。

  三

 平吉は一男を板張《いたばり》の外《はず》れへ連《つ》れて行って、監督に背《せ》をむけて立った。
「困ったな」
「なんか見つかるよ、お父つぁん」
 一男にもこれという当《あて》はなかったけれども、わざと撥《は》ね返《かえ》すように彼は答えた。
 平吉は監督に背中を見られているのを感じた。早く自分の仕事にかからなければならない。ゆっくり相談している暇はないのだ。
「じゃ、今夜、帰ってから相談することにしよう。気をつけて帰れよ」
 平吉はさっきから人待顔にすぐ前に下っていた太い鎖《くさり》の先の鈎《かぎ》に軽く右足をかけて鎖に全身を托《たく》した。ウィンチを捲《ま》く音が烈しく聞えて、鎖を下げた起重機は菜葉服《なっぱふく》の平吉を、蜘蛛《くも》の糸にぶら下った蜘蛛のように空中に吊《つ》り上《あ》げた。それから起重機はグーッとまわって、平吉の体を今までのところより五六メートル高い屋上の鉄の梁《はり》の上にぽとりと下した。すると殆《ほとん》ど間《ま》をおかずに、そこから鉄に鋲《びょう》を打ち込むリベット・ハンマー(鋲打《びょううち》の槌《つち》)の音がタタタタタと聞えはじめた。一男には気のせいかその音が、ほかの音より元気がないような気がした。
 よし、帰りに新聞を買って広告で就職口をさがしてやろう。見つけるといったら見つけずにはおかないから――
 一男は、縦横に組み上げられた鉄材の間から、遠く澄んだ空へ眼を放《はな》った。上総《かずさ》房州《ぼうしゅう》の山波《やまなみ》がくっきりと、彫《きざ》んだような輪廓《りんかく》を見せている。品川の海に浮かんでいるお台場《だいば》が、一つ二つ三つ、五つ六つ並んで緑色の可愛《かわい》い置物のようだ。銀座、芝あたりの町は小人島《こびとじま》のようだし、芝浦の岸壁《がんぺき》に碇泊《ていはく》している汽船はまるで玩具《おもちゃ》だ。すぐ近くの日比谷公園は、飛行機から見下《みおろ》すように、立樹《たちき》も建物も押しつぶされたように平ったく見える。
 風がさわやかに吹いていた。
「なアに、なんとかなるさ。ならなきゃして見せるまでだ」
 彼は急にはればれとした気持になって、シャツの襟《えり》をはだけて日にやけた胸を出した。まるで海へ帰ったようだ。
 その時、うしろに立っていた岸本監督は、一男が無造作《むぞうさ》に歩き出したのを見て、はっとした。少年は今まで立っていた板張《いたばり》から出はずれると、ことさらに手で平均をとる様子もなく、両足をならべて立つ幅《はば》もない鉄梁《てつりょう》を伝《つた》って、ひょいとビルディングの一番外側になっている鉄桁《てつげた》に足をのせた。そこで彼はポケットに手を突込んだまんま、目の下二十五メートルのところを白く流れている大通を見下した。自動車、自転車の往来でも眺めているのだろう。彼は無心にいつまでも見下している。
 監督は大声が出したくなったのを、やっとのことで我慢した。足を踏み外《はず》したらどうするというのだ。彼はその時一男をひきずり倒して殴《なぐ》りつけたい程じりじりすると同時に、また一方では、その面憎《つらにく》いまで落ちつきはらった胆《きも》っ玉《たま》の太さに、思うさま拍手を送りたくなったのだった。
「うむ、大した胆だ。惜しいもんだな」
 岸本監督は喉の奥でひとりうめいた。
 そのうち、あたりに働いている職人たちのうちにも、何人かその危いところに立っている一男の姿に気づいたものがあった。彼等はその姿に気づくと一しょにもう眼をはなすことが出来なかった。仕事をつづけることも忘れて、あっ気《け》にとられて見つめたっきりになってしまった。やや俯向《うつ
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