校へ通わせてもらっている幸福な少年たちのように、呑気《のんき》ではなかった。今自分に仕事が見つからなければ、家がどんなに困ることになるかということがちゃんと分かっていた。
だから今断られたことを悲しむ気持は、或《あるい》は父親の平吉以上だったかも知れない。
一男は一年半程まえから、近海航路の貨物船の水夫をしていた。年が年だからむろん給仕で乗り込んだのだが、船が補助機関を設備した帆船《はんせん》だったため、その身軽なところを見込まれて、二箇月とたたないうちに水夫に採用された。実際、彼ぐらい楽々とマストに登って帆をあやつることの出来る水夫はなかった。どんなに風が吹いてもマストがしなうほど揺れようが、彼は平気で軍歌をうたいながらそのてっぺんで働いた。彼は船乗《ふなのり》の暮しを少しもつらいとは思わなかった。皆から快活な性質を愛されながら、自由で男らしいその仕事をむしろ楽しんでいた。それに水夫になってからは給料もよく、家へも十分に金を送ることが出来た。
ところが、九月半ば頃、大荒《おおあれ》の海をのり切って船が大阪港へ入った時、一通の電報が彼を待ち受けていた。
「ハハ ビヨウキ カエレ」
彼は別れを惜しんでくれる大勢の兄貴分たちを船に残して、暗い思いで大阪駅から汽車に乗った。
夕方、本所《ほんじょ》のごみごみした町の、とある路地《ろじ》の奥にある、海の上でも一日として忘れたことのない懐《なつ》かしい我が家へ入ると、すぐ下の妹、十五になるすみ[#「すみ」に傍点]が、前掛《まえかけ》で手を拭《ふ》きながら飛び出して来た。
奥の六畳の薄暗い電灯の下に寝ている母親の枕もとへ一男が坐ると、五人の幼い弟妹たちがもの珍しげに彼をとり囲んだ。
母の病気は脚気《かっけ》だった。足が醤油樽《しょうゆだる》のようにむくみ、心臓を苦しがった。無理をして御飯ごしらえ、洗濯から大勢の子供たちの世話まで、この間までつづけて来たのだが、今では立っていることも出来なかった。すみ[#「すみ」に傍点]が工場勤《こうばづとめ》をやめて母代りに働くほかなかった。だが、そうなると母親はすっかり気が弱くなって、ここ半月ぐらいの間、毎日一男のことばかり言い暮した。はじめは相手にしなかった主人の平吉も、さすがに病人の心持が可哀《かわい》そうになった。それほどに会いたがっている一男に一目会わせてやったら、或は病気も早くなおるのではあるまいかと思われ出した。
それで、電報を打つことになったのだ。
「一男か、よく帰って来てくれた」
そそけ髪《がみ》の頭をあげて、母は幾日か夢に描きつづけた一男の顔を、じっと眺めた。涙が一滴《ひとしずく》、やつれた頬を伝《つた》って、枕の布《きれ》を濡《ぬら》した。
「もう大丈夫、僕どこへも行きはしませんよ」
一男は胸が一杯になって思わずそう言った。彼も鼻の奥の方が変に痛くなって来るのを感じた。
だが、一男は突然ひょうきんな顔を妹のすみ[#「すみ」に傍点]の方へふりむけた。
「ところで船長、お帰りはまだかい」
「船長?」
あっ気にとられている妹をからかうように一男はつづけた。
「わが石山丸の船長さ。お父《とっ》つぁんはまだかってんだよ」
「まア、兄さんたらお家と船を一しょにして――」
「船さ、船だとも、世の荒波を勇ましく乗り切る船だよ。――だが、この機関長、腹が減ってるんだがなア」
「もう、お父つぁんも帰る時分よ」
「そうか、じゃ水夫ども、甲板掃除《かんぱんそうじ》だ」
一男は後に控えた弟や妹を振りかえった。
「あっちの部屋を綺麗にしろよ」
「ようし、甲板掃除だ」
「あたち、水夫よ」
小さな弟や妹たちは急に元気になって、がやがや立ち上った。
しばらくぶりでこの貧しい家にも笑が帰って来た。病人はまだ眼尻《めじり》に涙のたまったままの顔で、唇に笑《え》みを浮かべていた。
「さア、お母さんも元気を出したと――、もう大丈夫ですよ。じきなおります。僕がきっとなおして見せます」
この一男の言葉が、母親には、医者に保証されたより頼もしく響いたのであった。
お膳が出るまでには父親も帰って来た。玄関兼居間の四畳半に、平吉と六人の子供たちが食卓を囲んで坐ると、船の食堂よりもっと窮屈《きゅうくつ》だった。発育ざかりの弟や妹が次々に茶碗を突き出す様子は、出帆《しゅっぱん》の準備をする時よりもっと忙《せわ》しなかった。一男はその中で父から母親の病気の様子をきいた。
命には別状はあるまいが、長くかかるだろうという医者の見たてだった。寝てばかりいるせいか、物を食べたがらないのが困るということだった。
一男は、家へ送るほかに、小づかいを倹約して貯めておいた金を父親の前へおいた。今までは、医者のいう通りにもなかなか出来なかったらしい。
「これで出来
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