何でも、ドイツかイタリーの音楽に「鍛冶屋」というのがあって、トントンと鉄砧《かなしき》を叩く、それからヒントを得たと言っていた。そういうふうにして、安藤君の作品が相当に集まって行った。
ところが、あるとき突然、先生は宝塚の方針に対して気にいらないことがあったと見えて、楽譜集を持って、どっかへ隠れてしまった。私は内心困ったなと思ったが、おもては平然として、
『安藤が隠れたって、オレはちっとも困らんよ。作曲は自分でする。』
安藤君は僕が音楽の知識のないことを知っているので、とても作曲なんぞできるはずがないと、たかを括っていたらしいが、僕は何とか唱歌集とか、学校の唱歌教科書を集めて来て、それを一ト通り読むと、まずここへこの歌を持って来る。それが終るとここで話をして芝居をする。今度はこの音楽を持って来る。というふうに、はさみとのりでどんどん脚本をつくった。さすがの先生も、それには閉口して、泣きを入れて帰って来た。こんな訳で、初期のものは安藤君のつくったものより、私のつくったものの方が多いくらいだ。
大正三年四月からやった「ドンブラコ」、これは北村先生のもので、八月一日から安藤君の「浦島太郎」、私が「紅葉狩」、安藤君の「音楽カフェー」、四年には薄田泣菫の「平和の女神」、「兎の春」、「雛祭」、安藤君は薄田のものをよくやっていた。とにかく、この頃は少し困ると『よしよし』といって、私がすぐひき受けるものだから、人の力を借りなくても、宝塚でどんどん作品ができた。
それが大正七、八年まで続いて、やや成功して来たので、私はのりとはさみを人に譲ってやめた。私がやっている時分はほんとうの田舎娘の集まりで、内々で好きなものがやっていたのだから、それでよかったわけだ。
そのころの女の子は、膝から上はどんなことがあっても出さない。もっとパッとまくって、足を見せなくてはいかんといっても、膝までは出すけれども、膝から上を出すなんて考えてもおらなんだから、先生方はどんなにやかましく? いっても、いうことを聞かない。それで非常に困ったのを今も憶えている。
新しい舞台芸術の萠芽
幸いに、この処女公演の成功の波にのって、その公演回数は春、夏、秋、冬の年四回と定めて、相次いで新作歌劇を上演することとなったが、不幸にして経済界の不況に影響されて、公演毎に観客数は予定の半ばにも達せず、つづいて数年間の苦悩時代を経験した。
この苦況と闘う宝塚少女歌劇団の努力に、先ず最初に深い理解と同情を示したのは大阪毎日新聞社であった。そしてこれを広く社会に紹介するために、また一つには大毎慈善団の基金募集のために、大阪毎日新聞社主催の大毎慈善歌劇会を年末行事の催物として、例年開催するの運びとなり、第一回は大正三年十二月十一日より三日間、それは北浜の帝国座で催された。
この大毎慈善歌劇会は、誕生後間もない宝塚少女歌劇を広く世間に認識させるに大いに役立った。幸いに好評をえて、その翌年もまた北浜の帝国座で公演したが、第三回目からは道頓堀の浪花座に進出して、殺到する観客を収容し切れない、という盛況だった。それで第五回目からは、中之島の中央公会堂で公演することになった。
その他にも、鐘淵紡績慰安会、愛国婦人会慈善会、京都青年会大バザー、医科大学慈善会等各方面から招聘されて、大阪、京都、神戸に出張公演を行なった。
この公演は経済的には頗る恵まれなかった。けれども、その前途に対してやや愁眉を開きうる見極めがついたので、その内容の充実をはかることが何よりの急務となった。そこで関西における舞踊界の新人、楳茂都陸平氏を振付に、また作曲者として三善和気、原田潤の両氏を歌劇団の教師に招いた。そして深刻な経営難に脅かされながらも、関係者の努力は、一歩一歩、この新しい舞台芸術の萠芽を育てていった。
坪内逍遙博士の折紙
当時、少女歌劇を御覧になった坪内博士は、宝塚少女歌劇集第一号(大正五年十月)に左の如き一文を寄せられている。
愛らしき少女歌劇
[#地から1字上げ]文学博士 坪内逍遙
[#ここから2字下げ]
私は予て主張して居る舞踊劇の立場からしても常に双手を挙げて歌劇の隆興を賛して居るものだが、なかなか現在の日本の社会では盛んな流行の見えて来そうな模様がない。その社会の現状に対して愛らしい少女歌劇などの出来たのは思いつきだといわなければなるまい。しかもその少女歌劇団にお伽のものを遣らせて少年少女を歌劇趣味に導きつつ徐々に社会の新趣味を向上させようとの思いつきは頗る適当な方法だと思う。
一言に歌劇といっても、大きいのもあれば、小さいのもあり、深いのもあれば、浅いのもあるに違いないが、先ず現今では浅い小さいものから始めて行かなければなるまい。夫れには子供の趣味に適したお伽のようなものもよかろうし、歴史噺のようなものもよかろうが、次第次第に歩みを進めて、彼のワグネル等の試みたような大作を演ずる大オペラ団の出現するようになって欲しいものだ。歌劇に就いての研究家等も、昨今では、先ず先ず喜歌劇ぐらいから社会に広めて行くのが今の場合適度だろうと論じて居るような折柄だから、愛らしいこんな少女歌劇団も賛成されるに違いない。(後略)
[#ここで字下げ終わり]
さて、大正七年五月には東京の帝劇へ出て、帝劇へはそれから毎年行くようになった。この東京公演についての批評は、劇界に対する当時の事情を知ることができるので、次に掲げてみよう。
日本歌劇の曙光
[#地から1字上げ]小山内薫
[#ここから2字下げ]
『宝塚の少女歌劇とかいうものが来ますね。あなた大阪で御覧になった事がおありですか。』
『ええ、あります。二三度見ました。』
『どうです。評判ほど面白いものなのですか。』
『さあ面白いというのにも、ずい分種類がありますから、私の面白いと言うのと、あなたの面白いと言うのとでは、意味が違うかもしれませんが、私は確かに面白いと思いました。』
『人間はいくら大人になってもどこかに子供らしい感情を持っているものです。あなたの今面白いとおっしゃったのは、その子供らしい感情からですか。あるいは、大人らしい感情からですか。』
『どっちの感情からも面白いと思ったのです。私は子供にもなり、大人にもなって喜んだのです。それはドイツのフンバアヂングが始めたメルヒェンオパアというようなものなのですね。』
『そんな立派なものですか。』
『いや勿論そんな立派なものじゃありません。併しやがてはそういう所へまで進むのではないかと思われます。宝塚の少女歌劇はフンバアヂングのしたように、日本人に――殊に日本の子供にポピュラアな曲を取り入れる事を第一の出発点にしているようです。それから日本の詞として歌わせるように注意しているようです。近頃浅草の六区などでオペラと称しているものを聞くと日本の詞が伊太利語として歌われたり、仏蘭西語として発音されたりしています。尤もあれらは原曲が向うのものだからやむを得ないという口実もありましょうが、それにしても日本の詞の音楽を余りに無視したしかただと思っています。そこへ来ると宝塚の少女歌劇は立派に日本語を日本語として歌っています。』
『お説のようだと、日本将来のオペラは宝塚の温泉場から生れて来そうに思えますね。』
『いや実際生れて来そうなのです。少女歌劇そのものの発達が日本将来のオペラだと言ったら言い過ぎもしましょうが、とにかくこういう物から本当の日本歌劇が生れて来るのではないかと思います。私が大人として面白かったと言ったのは、一はそういう意味からでもあったのです。』
『それからまだ他に大人として面白かったことがありますか。』
『あります。それはアンサンブルとしての演技にとても大人には見られない統一のあった事です。この一座にはスタアという者がありません。プリマドンナという者がありません。それ故、甲の役者が乙の役者を押し退けたり、乙の役者が甲の役者を圧倒したりするような事がありません。お姫様も女中も殿様も家来もみんな同じラインの上で働いています。それが私には何ともいえない快い感じを与えました。』
『成程それは好い気持でしょう。併しそういう風にして子供の芸術家を養成するという事が果して理想的な教育法でしょうか。それがために一人一人の個性が失われて行くというような憂えはないでしょうか。』
『私はその心配はないと思います。個性というものは黙っていても成長します。併し統一と訓練とは監督者に待たなければなりません。宝塚少女歌劇の可愛い役者達が舞台監督なり楽長なりを神様のように思って、小学校の生徒が体操の号令一つで動くように、一挙手一投足其の命令を待っている様子は、将来の歌劇の実に理想的な模型だと思います。』
『とうとうあなたのいつもの演劇論になりましたね。ところで演劇とは書いてありますが、宝塚のは一体どんな形式なのです。本当のオペラの形式なのですか。』
『勿論そうじゃありません。形式は先ずオペレットです。歌の間に素の台詞の這入る奴です。併し「竹取物語」などというものになると、可なりオペラらしい分子が多量に這入っていました。でも宝塚の幹部達は何処までも少女歌劇と言って貰いたい。オペラとは言って貰いたくないと言っていました。その謙遜な態度も私には気に入りましたね。』
『踊などには日本在来の型が這入り過ぎているという評がありましたが、それはどうですか。』
『それは私もそう思いました。併し私は寧ろその大胆なのに敬服している方です。あれが段々に淘汰されたら却って面白いものが出来はしまいかと思っています。ああいう大胆な試みから日本在来の踊りでもない西洋のダンスでもない一種の新しい日本の踊りが生まれて来るのではないかと思っています。』
『まあそれは見てからの議論としましょう。』
『そうです。まあ一度見てやって下さい。私はやかましい議論を離れて大の贔屓なのですから。』
『それは子供らしい感情の方からですか。』
『そうです。私はその時分三つだった私の長男を連れて宝塚へ行ったのですが、其の時見た「桜大名」というのを未だに子供は忘れずにいるのです。もう五つになったのですが。』
『では、今度も子供衆のお供ですか。』
『子供のお供だか、子供がお供だか分らないのです。私の方が寧ろ楽しみにしている位ですから。』
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](時事新報)
この帝劇公演からはじめてお金をとって見せるようになった。東京へ行ったらすぐに高輪の毛利公爵の婦人教育会に招ばれた。帝劇へ出たのをきっかけに、新橋演舞場、歌舞伎座と出るようになって、これなら東京でもできるということがわかったから、今の東京宝塚劇場を建設するようにまでなった。
このように宝塚が帝劇に出るようになり、今度は立派な小屋ができ、どんどん発展して行くと、今日のスターを映画に引抜かれると同じように、宝塚の作曲家の原田潤とか、舞踊を教える楳茂都陸平とか、そういう方面のスターをみんな持って行かれたことがある。それは松竹少女歌劇をつくるについて、スタッフを作曲から舞踊から演出から音楽からみんな宝塚から引っこ抜いて行った。そのときは非常に困ったけれども、あとからあとからといい人を養成して発展していった。
意外な「花嫁学校」の実質
前にも述べたように、私が宝塚音楽学校をつくって四十一年だ。その間卒業生が何人出たか、ずっと古い人から数え上げると二千人は出ているだろう。今わかっているので千数百人ある。大正十二年からは毎年五十人ずつ採って、それから、かれこれ三十年になるから、それだけでも千五百人、その前のごく初期には十人か十五人くらいだったから、ざっとみて五百人くらい、あわせて二千人ぐらいではないかと思う。
そのうち、現在いわゆる芸能人として名をなしている人が三十七人しかいない。あとの千九百六十三人はどうしているかというと、ほとんど家庭の人となっている。これは無理もないと思うことで、今は学校の規則がかわって、
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