宝塚生い立ちの記
小林一三
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(例)鉄砧《かなしき》
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四十年前の宝塚風景
私が宝塚音楽学校を創めてから、今年でちょうど四十一年になる。今日でこそ、大衆娯楽の理想郷としてあまねく、その名を知られている宝塚ではあるが、学校をはじめた当時は、見る影もない寂しい一寒村にすぎなかった。
そして宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近ではあったが、ずっと川の中へ突き出した武庫川の岸にささやかな湯小屋が設けられていて、その傍らに柳の木が一本植わっていた。そして塩尾寺へ登って行く道の傍らに、観世音を祀った一軒の小屋があって、尼さんが一人いた。湯に入るものはそこへ参詣をしてから、流れの急な湯小屋の方へ下りて行ったものだ。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のことであり、それ以後保養のために集って来る湯治客は、やや増加したとはいうものの、多数の浴客を誘引する設備に欠けていたので、別にめざましい発展も見られなかった。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げて、対岸に宿屋や料亭が軒をならべるに至ったのであるが、明治四十三年三月十日、箕面有馬電気軌道株式会社(現在の京阪神急行電鉄株式会社の前身)の電車開通当時は、武庫川の東岸すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。
箕面有馬電気軌道はその開通後、乗客の増加をはかるためには、一日も早く沿線を住宅地として発展させるより外に方法がなかった。しかし住宅経営は、短日月に成功することはむずかしいので、沿線が発展して乗客数が固定するまでは、やむをえず何らかの遊覧設備をつくって多数の乗客を誘引する必要に迫られた。そしてその遊覧候補地として選ばれたのが、箕面と宝塚の二つであった。こうして箕面にはその自然の渓谷と山林美とを背景にして、新しい形式の動物園が設置され、宝塚には武庫川東岸の埋立地を買収して、ここに新しい大理石造りの大浴場、および瀟洒な家族温泉を新設する計画をたて、明治四十四年五月一日に完成した。当時としてはモダーンな娯楽場として発足したのである。
無理にこしらえた新都会
元来宝塚は、大阪市と神戸市より程近い地点にあって、美しい六甲の峰つづきである譲葉嶽の山麓に位して、生瀬の渓谷から奔流して来る武庫川の早瀬にそうた、すこぶる風光明媚な景勝の地であるので、新温泉場の出現とともに来遊客は非常に増加した。また箕面動物園も、いろいろの設備を充実するにつれて来遊者は増加し、予想外の好成績を挙げたが、しかし宝塚新温泉の経営開始後間もなく、その方針は一変されて、箕面公園はこれを俗塵の境として、その自然美をそこなうよりは、むしろ煤煙の都に住む大阪の人々のために、天然の閑寂を保つにしかずという主義によって森林美、箕面公園の大自然を永久に保護しようということになり、ここに宝塚経営に集中主義をとることとなり、箕面動物園はついに閉鎖された。
そこで宝塚新温泉内の娯楽設備を充実させることとなり、明治四十五年七月一日には近代的な構造の洋館を増設して、室内水泳場を中心とした娯楽設備を設けて、これをパラダイスと名づけた。このプールの設計は、その当時の日本にはどこにも無い最初の試みであったが、時勢が早すぎたことと、蒸気の通らない室内プールの失敗と、女子の観客を許さない取締りや男女共泳も許さないといういろいろの事情から、利用される範囲がすこぶるせまく、結局失敗に終ってしまった。
この水泳場を利用して、温泉場の余興として、遊覧客を吸収しようという計画がいろいろと考えられた。その頃、大阪の三越呉服店には、少年音楽隊なるものがあった。二、三十人の可愛らしい楽士が養成され、赤地格子縞の洋装に鳥の羽根のついた帽子を斜めにかぶって、ちょっとチャアミングないでたちで、各所の余興にサービスをして好評であった。宝塚新温泉もこれをまねて、三越の指導を受け、女子音楽隊を設けることにした。十五、六名の少女を募集し、唱歌をうたわせようという宝塚唱歌隊なるものを組織することになったのである。
これは裏話になるが、当時ほとんど何もなかった宝塚の地へ、あんな無理なことをやったのは、電車を繁昌させなくてはならないから、何とかしてお客をひっぱろうとしてやったことで、何も宝塚というところがいいからといってやったわけではない。電車事業というものは都会と都会を結ぶからいいので、宝塚線のように、一方に大阪という大都会があっても、一方が山と川ではダメだから、何かやらなくてはならないというわけで、従って宝塚は無理にこしらえた都会である。
だから宝塚にあれだけの大きなものをこしらえていても、終戦後に使った金の方がおそらく多いであろう。近頃のことはわからないけれども、私がやった頃は二、三千万円でできた。それを改装したりするのに、終戦後恐らく七、八千万円は使っているであろう。しかし今日でも、一億円にはなっていないから、考えてみると安いものであった。今あんなものをつくったら、恐らく何十億かかるかもしれないと思うと、感慨の深いものがある。
「宝塚歌劇」の誕生
また私が宝塚歌劇をはじめるについて、いろいろ若い人の間には伝説のような話が伝わっているらしいが、前にも書いたように三越唱歌隊からヒントを得たものだ。しかしこんなこともあった。まだ宝塚歌劇を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は「熊野」であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころの観客は大体芝居のセリフ、講談のセリフを聞きつけている人たちだから、『もォーしもォーし』といって奇声を発してやるのがおかしくてしようがない。だが見渡すと、それを笑わないで聞いている一団が三階席にいた。三階席の中央部にいた男女一団の学生達である。私は冷評悪罵にあつまる廊下の見物人をぬけて三階席に上って行った。みんな緊張して見ている。僕はそこへ行って、
『あなた方、これがおもしろいのですか』
と、聞くと、
『三浦さんはこうだ、清水金太郎はこうだ』
と、批評をする。それは音楽学校の生徒であった。私には音楽学校でそういうものを習っているな、ということがわかった。オペラの将来が洋々と展けていることを知った。
もっとも、その前からそのくらいのことは多少知っておったけれども、いよいよ自分が少女歌劇をやり出すについて、これは笑うどころじゃない、みんな必ずついて来るという確信がついた。それからは私はどんどん自分の考えどおり進むことができたものだ。
それはさておき、このようにして、大正二年七月、宝塚唱歌隊第一期生として、左の十六名の少女達が採用されたのであった。
高峰妙子 雄山艶子 外山咲子 由良道子
八十島楫子 雲井浪子 秋田衣子 関守須磨子
三室錦子 小倉みゆき 大江文子 松浦もしほ
三好小夜子 筑波峰子 若菜君子 逢坂関子
その指導者としては安藤弘氏、唱歌は安藤智恵子夫人、音楽は高木和夫氏、事務の方面は温泉主任安威勝也、藤本一二(藤本令妹は音楽学校出身で、その関係から安藤夫妻が選ばれたのである)両氏等の指導の下に、唱歌隊としての教育を行なうこととなった。
多年歌劇に対する一つの理想を持っておった安藤弘氏を、当時その任に得たことは宝塚の幸運であった。
安藤弘氏は、第一次鳩山内閣文相、安藤正純氏の弟であって、本願寺の坊さんもしたことのある人である。三浦環(旧姓柴田)という世界的オペラシンガーが上野音楽学校を卒業した時に、そのクラスの中で、三浦環の競争者で、それを負かして首席で出た小室智恵子という一人の女性があった。
彼女の父は三井物産の重役で、ながらく外国生活をしてきた小室三吉氏である。幼き頃、彼地で教育をうけた智恵子さんは帰国して、上野で勉強する頃、同級生の秀才安藤弘と恋愛をした。ところが、その頃大正二、三年の頃の音楽学校は、官立学校の常として、コチコチで、生徒どうしの恋愛関係は厳しい批判の的になった。言うなれば御法度破りの反逆児だ。
この天才的な二人が夫婦になって宝塚へ来てくれた。それは新温泉の従業員であった三田出身の藤本一二君の妹さんが、環、智恵子両女史と同級のピアニストである関係から、お世話して頂いたものである。そして、奥さんは声楽を教え、主人はピアノを作曲し、自分でも弾いたりした。しかし舞台へ出て弾くのは困るからというので、今の高木和夫というピアニストを雇って来た。
こういうふうにして宝塚歌劇というものが誕生したのである。
ところで、その頃の考え方として、ただ単に唱歌をうたうのみでは余りに単純過ぎる。よろしく歌劇を上演すべしという主張と、歌劇という名目にとらわれて、高踏的に走り過ぎては温泉場の余興とはなり得ない。一切の理論から離れて、平易なやり易いものをという経営者の方針と、一時衝突したこともあったが、結局双方からあゆみよって、振付として高尾楓蔭氏、久松一声氏等が招聘され、第二期生として瀧川末子、篠原浅茅、人見八重子、吉野雪子の四名がくわわって、ここにはじめて宝塚少女歌劇養成会が組織されたのである。
宝塚少女歌劇養成会の教育方法は、すべて東京音楽学校の規則にのっとり、入学資格だけは小学校修業十五歳以下の少女にかぎり、修業年限を三年とし、その間に器楽、唱歌、和洋舞踊、歌劇を教授するものであって、我が国でもはじめての試みであった。
水泳場の仮舞台で初公演
さきに募集した第一、二期生達は、舞台に必要な基本的演技、すなわち声楽、器楽、和洋舞踊、その他全般にわたって約九ヶ月の間熱心に養成された。その進歩は早く、成績がすこぶるよかったので、ここに第一回公演期日を大正三年四月一日と決定して、公演に関する諸般の準備を着々として進めた。
まず第一に考慮せねばならないのは、生徒達が習いおぼえた演技を発表する劇場であった。だがこれは、さきに時勢に早過ぎて失敗した「パラダイス」の室内水泳場を利用することとなり、その水槽の全面に床を設けて客席とし、脱衣場を舞台に改造(夏は再び水泳場にするつもりであった)して、ここに宝塚少女歌劇公演用の記念すべき最初の劇場が生れた。そしてこの第一回公演に選ばれた曲目は、左の三曲目であった。
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北村季晴氏作 歌劇「ドンブラコ」
本居長世氏作 喜歌劇「浮れ達磨」
宝塚少女歌劇団作 ダンス「胡蝶の舞」
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このように上演脚本も選定せられて、配役も決定し、公演の練習に没頭した。それも、三月二十日から三十一日にいたる十二日間を、連日舞台稽古に費したというほどの慎重さをもって、いよいよ四月一日、処女公演の幕を開けた。
今日から考えると、それは温泉場の余興として生れたとはいうものの、日本劇壇の一つの新分野を開拓するものでもあった。それはやがて新国民劇として大成する芽生えが、微かにその双芽を覗かせていたのである。
糊と鋏で出来上った脚本
この処女公演は四月一日から五月三十日まで公開されたのであるが、その間には、いろいろ困った、といっても、またなかなか面白い話もあった。
はじめの頃は安藤君の作品が多かったが、その中でも、初期上演の「音楽カフェー」は代表的なもので、安藤君が作曲し、脚本も書いた。
あるレストランがあって、そこで何かのときに女給がお皿を叩いたり、フォークで調子をとって陽気に唄い騒ぐ、そういうハーモニーを考えて一つの歌劇をつくり上げたのだ。
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