一番若くて十五、六で入るが、もとは十三、四から入った。そうしてハタチにならない前に、十八、九までにおおよその素質なり、有望であるか見込みがないか、ということがわかるから、その間にどんどん退校してお嫁にいく。奥さんとしては、いわゆる芸術的教養があって、音楽もでき、踊りもできというふうで、手前みそで言えば、彼女らはみんな「上品なマダム」なのである。
 ところが私は、実情がそうなっていることを以前には意識しなかった。われわれ音楽学校をつくって、舞台へ出る芸術家のことばかり考えておったけれども、さて舞台人として活躍している人は三十七人しかない。あとは、ほとんど一般の善良な家庭の主婦におさまっているという事実を見ると、将来もどうもそういうふうになるんではないかという気がする。
 それにつけても、お金をかけて一人前に育て上げた者をよそへとられるなんて、いかにもばかばかしいと思った時代もあったけれども、それはまことに考えちがいで、婦人として、りっぱな教養を備えた理想的奥さんができるならば、そのほかのことは附録のようなものである。むしろ多々益々よそへとられてもかまわぬという気持にさえなっている。

        私の「女性観」といったもの

 こういう訳で、私は若い女性、特に大勢の中から選ばれた美人を数多くみて来た。したがって、私には私なりに女性観もあるが、もともと、私どもの若い時代は、亭主関白、男尊女卑の時代であって、ヘリクツ言うような型の女はとても売れなかった時代だから、そんな古い者の女性観なんて、今の人から見たらおよそ時代遅れの縁遠い話だろうが、私の女性観を言わせてもらうとやっぱり第一に健康でなくてはダメだと思う。健康美こそ美人の第一要件だ。ヒョロヒョロして歌麿の絵に出て来るようなのは美人ではない。今だってやはりそうだろう。宝塚の卒業生がいい奥さんになるというのも健康美だからだ。舞台へ出て、冬でもはだしで踊る訓練をして来ているから、体が鍛えられている。私は肺病やみのような女はいいと思ったことがない。少し肥って頑丈な女の方がずっとよい。
 学生時代のことであるが、福澤先生の四番目のお嬢さんで、後に住友の重役の志立鐵次郎氏の奥さんになったお瀧さんという人を健康美に輝くすばらしい女性だと思って見ていた。学生時代、十六からハタチまで五年間おった寄宿舎からは、福澤先生の家がよく見えて、先生の家から出てくる婦人がいつもみんなの評判になった。今でも覚えているが、上からお里さん、お房さん、お俊さん、お瀧さん、お光さんといって、お嬢さんが五人あった。ところが、福澤先生のお嬢さんは、みんなベッピンなんだけれども、弱々しい。その中にあってお瀧さんだけがよく肥って元気そうだった。お瀧さんはその頃十六、七であったろう。小肥りに血色のよい、発剌とした洋装の女性で、今日でも恐らく現代的美人の標準になるだろう。その妹のお光さんもまた美人で優さ形のおとなしい、しとやかなお嬢さんのように印象に残っている。お光さんは潮田傳五郎工学士の奥さんになられた方で、現在の潮田塾長のお母さんである。
 女はいくら利口であっても、女らしさを失ったらダメだ。私の奥さんは私の圧制のもとで暮して来たから、私からいえば一番気に入った女房で、奥さんからいえば、こんな怪しからん亭主はないと思っているだろう。女らしさというのは、亭主に逆らわないということだ。今の人が見たら旧式で封建的かもしれないが、私の時代にはみんながそうだったからフシギではなかった。
 女らしさということになると、武藤山治さんの奥さん(千世子夫人)は実に女らしい人であった。神戸のどこか金持のお嬢さんだが、奥さんとしておつき合いしておって誠にりっぱな人だと思う。賢こい人だけれど、武藤さんの言うことを何でも、すなおに聞いて賢こさを少しも表に現わさない。まことに見上げたものであった。
 一体に関西、中京、関東の女を比べてみると、名古屋の女は一番発展家だ。しかし堅実だ。昔から名古屋人は、お金を蓄めるのが非常に上手だが、女もそうだ。恋よりお金の方がいいのだろう。
 そこへ行くとやはり女は江戸っ子でなくてはいけない。京都の女、大阪の女は従順さが買える。しかし、何といっても東京の女はテキパキしてはっきりしていていい。

        「男の世界」と「女の世界」

 また、男と女と比べてみると、何事にも専門的に進んで行く場合には、やはり男でなければダメだけれども、アマチュアとしての程度では女の方がいいと思う。料理屋へ行っても腕のいい料理人は男であるし、仕立屋でもほんとうにうまい一流の仕立屋は男である。料理とか裁縫は女のすることだと思っておったが、最高の技能を発揮するのには男でなくてはダメなようである。だから『女だけで芸術がやって行かれますか』ということになるが、私はそうは思わない。というのは、世の中に女ほど器用な者はないからだ。
 うちの歌劇なんか、男をこれだけに育てることは不可能だ。料理にしても、うまいものは男でなくてはならんかもしれないが、家庭ですぐ間に合うものをつくるのは女である。今宝塚はかれこれ四、五百人の生徒でやっているが、男だったらこんなことがやれるものではない。年中喧嘩だろう。今は一人一人が光る歌い手であり踊り手であり、演技者であることが必要になって来ている。それには女の方が器用である。そして宝塚には男の世界にない、女でなければできない雰囲気があると思っている。
 宝塚の生徒で感心する娘が幾人もあった。その一人に糸井しだれというのがいる。これは初め全然認められなかったが、黙々と勉強していた。それをカラスロア先生が舞台の袖で聞いていて『私が教えよう』といって教え出した。すると彼女の歌は、ぐんぐん伸びてそれから認められて来た。
 戦争中北支の皇軍慰問につれて行ったとき、あの娘だけが朝は早くから起きるし、駅に着けば疲れもいとわずに降りて歌うし、だれよりも頑張る。あるとき古川ロッパ君の一座に貸したことがあったが、帰って来て、
『もうこりごりです。男の劇団はいやらしくてイヤだわ。二度とああいうところへは行きません。』
と言う。非常にまじめな潔癖な娘だった。最後は許婚者が大尉だったので、歌劇がイヤになったのじゃないけれども、当時は軍人の細君は芸人では結婚が許されなかったので、嫁にいくために宝塚を退いて、花王石鹸の女事務員になった。そうして、まだ結婚しないのに、許婚者のお母さんのところへ行っていて、そこで空襲を受けて亡くなった。
 それから萬代峯子とか、先だって死んだ園井恵子なども感心した生徒だ。園井恵子は北海道から出て来て、女給になろうか、歌劇に入ろうかと思い悩んだ。当時、南部という舎監がいて、それに相談した。
『自分は親兄弟を養わなければならないが、歌劇に入ったら幾らもらえますか。』
と聞いていろいろ相談した末に、
『宝塚へ入った方がいいでしょう。』
ということだったので、こちらに決めたらしい。これも実にまじめな娘で、親兄弟を北海道から呼んで、家を持たして働いていたが、かわいそうに広島の空襲で亡くなった。
 また、大江美智子一座というのを知っているでしょう。大江美智子は大阪北の新地の舞妓に出ようというので、私らが行くあるお茶屋へ、芸妓の見習として出て来た。私らは、
『こりゃベッピンだ』とにらんで、いろいろ聞いてみると、『芝居が一番好きだ』と言う。
『芝居が好きなのに舞妓になったってしようがないよ。ひとつ宝塚へ入ったらどうか。』
と勧誘した。
 そのうちに舞妓の方はやめて、宝塚の試験を受けに来た。そして一時、宝塚へ入ったが、やっぱり芝居が好きで、その方に進みたいらしく、あやめが池の右太衛門(先代)プロに入り、一時右太衛門と結婚するような話もあったが、右太衛門が亡くなったので、今度は大江美智子一座というのをつくって、ひところ華やかにやっていたが、宇部かどこかの楽屋で盲腸炎を患って死んでしまった。これは先代の大江美智子のことで、お父さんが新派の役者だった。
 鶴万亀子という娘もまじめ過ぎるくらいまじめで、もっと舞台の方に進んでいたら、あるいは映画にでも出ていたら、大したものになっていたろうが、一介のサラリーマンのところへ嫁にいってしまった。今でも子供をおんぶして同窓会に顔を出す。
 秋田露子は北海道大学の理学博士の奥さんにもらわれて、子供が六人――男が四人、女が二人――あって、総領は三十くらいになるだろう。いい家庭の主婦におさまっている。

        恋愛結婚よりは見合結婚

 また、その間には生徒たちの結婚も沢山みて、結婚についてもいろいろと考えさせられることもある。
 敗戦後は、小学校から大学まですべて共学になって、学校にいる間にお互いに知り合って、相手の気持もわかり、家庭の事情もよくわかって夫婦になるという行き方になって来たのだが、しかし私の過去四十年の経験から見ると、これまでの家族制度のうちの見合結婚もなかなかよいものだと思う。これには親が勝手に決めるという弊害もあったが、しかし弊害が多いから見合結婚は悪いものだという結論にはならないのではないか。
 見合結婚には、親がむりに見合をさせて、すぐ結婚を強制するような行き方も一部にはあるが、大体は双方の親なり兄弟なりが、相手の身元をよく調べ、家庭の事情なども考慮に入れて、『これなら』というわけで見合させるのであるから、私は自由結婚よりも見合結婚の方が間違いないと思っている。
 若い男と女が、まだ何もわからない間に恋愛して結婚生活に入るのと、見合によって夫婦となり結婚してから起る自然な恋愛感情と、どっちがいいかという問題が起って来る。
 私は、見合結婚した夫婦には結婚後、自然に恋愛感情が起って来る、しかもその恋愛は若い者同士の熱病みたいなものと違って、さめやしない、いくらでも長く続くものだ、というふうに解釈している。だから、今までよくあった圧制的な見合結婚はいけないが、あらゆる方面で聞きあわして、これならいい、いわゆる良縁だというのであれば、その上に生ずる愛情は、偕老同穴の契りを結ぶ人生の最後まで円満に行くものだと思っている。
 ところが恋愛による結婚は、少し経つと、お互いが欠点だらけに見えて来る。その点見合結婚は、親でも兄弟でも、年の功からいっても選び方は老練で、かわいい娘なり息子なりの前途に善かれかしと念じて相手を選ぶから、この行き方の方が二人の将来のためにはよいのではないかと思っている。
 第一、若い者に相手を見る目など十分に具わっているものではない。昔から「恋は盲目なり」という言葉もある。
 しかし、そう言う私の結婚は恋愛結婚なのだから、それを知っている人からは、私がそういうことをいうのはおかしいじゃないかと反問されるかも知れないが、私のはほんのまぐれ当りで、まあ千人に一人あるかないかだ。だから、私の恋愛結婚が非常にうまく行って、九人の孫、三人の曽孫があって、円満に行っているからというて、そう真似できるものだと思ったらいけない。
 アメリカあたりはほとんど恋愛結婚であるが、不幸な女が沢山いる。大体名前ばかりの夫婦で、籍は入ったままで離縁にはなっていないが、おそらく半分近くは別居生活であじけない暮しをしている。というのは、生活費なり扶助料なり出す力のある人は、話合いでどんどん離縁するが、アメリカというところは離婚するのに非常に金がかかる。うっかり財産の話をすると、半分はとられてしまうそうだから、公式の宴会などにはみんな何々夫人として同伴で列席しているが、内実は別居生活で、まことに落莫たる日を送っている婦人が多い。
 日本では、そんなことは存外少ない。そういうことをするほど余裕がないからでもあろうが、まあ女が辛抱しているのだろう。日本の婦人は夫に威張られて年中かわいそうな境遇にいるということも一面の事実であるが、宝塚の卒業生の場合などみると、破綻になっている人は、どちらかというと、むしろ芸術的に進んでいる人で、家庭的の人はちゃんと夫人としておさまっている。そこが実にお
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 一三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング