事業というものは都会と都会を結ぶからいいので、宝塚線のように、一方に大阪という大都会があっても、一方が山と川ではダメだから、何かやらなくてはならないというわけで、従って宝塚は無理にこしらえた都会である。
 だから宝塚にあれだけの大きなものをこしらえていても、終戦後に使った金の方がおそらく多いであろう。近頃のことはわからないけれども、私がやった頃は二、三千万円でできた。それを改装したりするのに、終戦後恐らく七、八千万円は使っているであろう。しかし今日でも、一億円にはなっていないから、考えてみると安いものであった。今あんなものをつくったら、恐らく何十億かかるかもしれないと思うと、感慨の深いものがある。

        「宝塚歌劇」の誕生

 また私が宝塚歌劇をはじめるについて、いろいろ若い人の間には伝説のような話が伝わっているらしいが、前にも書いたように三越唱歌隊からヒントを得たものだ。しかしこんなこともあった。まだ宝塚歌劇を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は「熊野」であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころ
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