どん発展して行くと、今日のスターを映画に引抜かれると同じように、宝塚の作曲家の原田潤とか、舞踊を教える楳茂都陸平とか、そういう方面のスターをみんな持って行かれたことがある。それは松竹少女歌劇をつくるについて、スタッフを作曲から舞踊から演出から音楽からみんな宝塚から引っこ抜いて行った。そのときは非常に困ったけれども、あとからあとからといい人を養成して発展していった。
意外な「花嫁学校」の実質
前にも述べたように、私が宝塚音楽学校をつくって四十一年だ。その間卒業生が何人出たか、ずっと古い人から数え上げると二千人は出ているだろう。今わかっているので千数百人ある。大正十二年からは毎年五十人ずつ採って、それから、かれこれ三十年になるから、それだけでも千五百人、その前のごく初期には十人か十五人くらいだったから、ざっとみて五百人くらい、あわせて二千人ぐらいではないかと思う。
そのうち、現在いわゆる芸能人として名をなしている人が三十七人しかいない。あとの千九百六十三人はどうしているかというと、ほとんど家庭の人となっている。これは無理もないと思うことで、今は学校の規則がかわって、
前へ
次へ
全33ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 一三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング