事業というものは都会と都会を結ぶからいいので、宝塚線のように、一方に大阪という大都会があっても、一方が山と川ではダメだから、何かやらなくてはならないというわけで、従って宝塚は無理にこしらえた都会である。
 だから宝塚にあれだけの大きなものをこしらえていても、終戦後に使った金の方がおそらく多いであろう。近頃のことはわからないけれども、私がやった頃は二、三千万円でできた。それを改装したりするのに、終戦後恐らく七、八千万円は使っているであろう。しかし今日でも、一億円にはなっていないから、考えてみると安いものであった。今あんなものをつくったら、恐らく何十億かかるかもしれないと思うと、感慨の深いものがある。

        「宝塚歌劇」の誕生

 また私が宝塚歌劇をはじめるについて、いろいろ若い人の間には伝説のような話が伝わっているらしいが、前にも書いたように三越唱歌隊からヒントを得たものだ。しかしこんなこともあった。まだ宝塚歌劇を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は「熊野」であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころの観客は大体芝居のセリフ、講談のセリフを聞きつけている人たちだから、『もォーしもォーし』といって奇声を発してやるのがおかしくてしようがない。だが見渡すと、それを笑わないで聞いている一団が三階席にいた。三階席の中央部にいた男女一団の学生達である。私は冷評悪罵にあつまる廊下の見物人をぬけて三階席に上って行った。みんな緊張して見ている。僕はそこへ行って、
『あなた方、これがおもしろいのですか』
と、聞くと、
『三浦さんはこうだ、清水金太郎はこうだ』
と、批評をする。それは音楽学校の生徒であった。私には音楽学校でそういうものを習っているな、ということがわかった。オペラの将来が洋々と展けていることを知った。
 もっとも、その前からそのくらいのことは多少知っておったけれども、いよいよ自分が少女歌劇をやり出すについて、これは笑うどころじゃない、みんな必ずついて来るという確信がついた。それからは私はどんどん自分の考えどおり進むことができたものだ。
 それはさておき、このようにして、大正二年七月、宝塚唱歌隊第一期生として、左の十六名の少女達が採用されたのであった。
  高峰妙子   雄山艶子   外山咲
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