、および瀟洒な家族温泉を新設する計画をたて、明治四十四年五月一日に完成した。当時としてはモダーンな娯楽場として発足したのである。
無理にこしらえた新都会
元来宝塚は、大阪市と神戸市より程近い地点にあって、美しい六甲の峰つづきである譲葉嶽の山麓に位して、生瀬の渓谷から奔流して来る武庫川の早瀬にそうた、すこぶる風光明媚な景勝の地であるので、新温泉場の出現とともに来遊客は非常に増加した。また箕面動物園も、いろいろの設備を充実するにつれて来遊者は増加し、予想外の好成績を挙げたが、しかし宝塚新温泉の経営開始後間もなく、その方針は一変されて、箕面公園はこれを俗塵の境として、その自然美をそこなうよりは、むしろ煤煙の都に住む大阪の人々のために、天然の閑寂を保つにしかずという主義によって森林美、箕面公園の大自然を永久に保護しようということになり、ここに宝塚経営に集中主義をとることとなり、箕面動物園はついに閉鎖された。
そこで宝塚新温泉内の娯楽設備を充実させることとなり、明治四十五年七月一日には近代的な構造の洋館を増設して、室内水泳場を中心とした娯楽設備を設けて、これをパラダイスと名づけた。このプールの設計は、その当時の日本にはどこにも無い最初の試みであったが、時勢が早すぎたことと、蒸気の通らない室内プールの失敗と、女子の観客を許さない取締りや男女共泳も許さないといういろいろの事情から、利用される範囲がすこぶるせまく、結局失敗に終ってしまった。
この水泳場を利用して、温泉場の余興として、遊覧客を吸収しようという計画がいろいろと考えられた。その頃、大阪の三越呉服店には、少年音楽隊なるものがあった。二、三十人の可愛らしい楽士が養成され、赤地格子縞の洋装に鳥の羽根のついた帽子を斜めにかぶって、ちょっとチャアミングないでたちで、各所の余興にサービスをして好評であった。宝塚新温泉もこれをまねて、三越の指導を受け、女子音楽隊を設けることにした。十五、六名の少女を募集し、唱歌をうたわせようという宝塚唱歌隊なるものを組織することになったのである。
これは裏話になるが、当時ほとんど何もなかった宝塚の地へ、あんな無理なことをやったのは、電車を繁昌させなくてはならないから、何とかしてお客をひっぱろうとしてやったことで、何も宝塚というところがいいからといってやったわけではない。電車
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