子   由良道子
  八十島楫子  雲井浪子   秋田衣子   関守須磨子
  三室錦子   小倉みゆき  大江文子   松浦もしほ
  三好小夜子  筑波峰子   若菜君子   逢坂関子
 その指導者としては安藤弘氏、唱歌は安藤智恵子夫人、音楽は高木和夫氏、事務の方面は温泉主任安威勝也、藤本一二(藤本令妹は音楽学校出身で、その関係から安藤夫妻が選ばれたのである)両氏等の指導の下に、唱歌隊としての教育を行なうこととなった。
 多年歌劇に対する一つの理想を持っておった安藤弘氏を、当時その任に得たことは宝塚の幸運であった。
 安藤弘氏は、第一次鳩山内閣文相、安藤正純氏の弟であって、本願寺の坊さんもしたことのある人である。三浦環(旧姓柴田)という世界的オペラシンガーが上野音楽学校を卒業した時に、そのクラスの中で、三浦環の競争者で、それを負かして首席で出た小室智恵子という一人の女性があった。
 彼女の父は三井物産の重役で、ながらく外国生活をしてきた小室三吉氏である。幼き頃、彼地で教育をうけた智恵子さんは帰国して、上野で勉強する頃、同級生の秀才安藤弘と恋愛をした。ところが、その頃大正二、三年の頃の音楽学校は、官立学校の常として、コチコチで、生徒どうしの恋愛関係は厳しい批判の的になった。言うなれば御法度破りの反逆児だ。
 この天才的な二人が夫婦になって宝塚へ来てくれた。それは新温泉の従業員であった三田出身の藤本一二君の妹さんが、環、智恵子両女史と同級のピアニストである関係から、お世話して頂いたものである。そして、奥さんは声楽を教え、主人はピアノを作曲し、自分でも弾いたりした。しかし舞台へ出て弾くのは困るからというので、今の高木和夫というピアニストを雇って来た。
 こういうふうにして宝塚歌劇というものが誕生したのである。
 ところで、その頃の考え方として、ただ単に唱歌をうたうのみでは余りに単純過ぎる。よろしく歌劇を上演すべしという主張と、歌劇という名目にとらわれて、高踏的に走り過ぎては温泉場の余興とはなり得ない。一切の理論から離れて、平易なやり易いものをという経営者の方針と、一時衝突したこともあったが、結局双方からあゆみよって、振付として高尾楓蔭氏、久松一声氏等が招聘され、第二期生として瀧川末子、篠原浅茅、人見八重子、吉野雪子の四名がくわわって、ここにはじめて宝塚少女歌劇養成会が
前へ 次へ
全17ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 一三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング