もしろいと思う。そして舞台で男役であった人は特別にしっかりしていて、理性的でもあるようである。

        歌劇の男役と歌舞伎の女形

 話は飛ぶが、宝塚の男役、女役というものは、かつてはわれわれも、女だけで芝居するなんて不自然だ、やはり男を入れて男女の芝居でなければいけないといって、何べんか宝塚歌劇を両性歌劇にしようと計画したことがあったが、今日ではもうそんなことは考えたことがない。それは歌舞伎と同じリクツだ。歌舞伎の女形は不自然だから、女を入れなければいかんというて、ときどき実行するけれども、結局、あれは女形あっての歌舞伎なのだ。同じように宝塚の歌劇も、男を入れてやる必要はさらにない。なぜなれば、女から見た男役というものは男以上のものである。いわゆる男性美を一番よく知っている者は女である。その女が工夫して演ずる男役は、女から見たら実物以上の惚れ惚れする男性が演ぜられているわけだ。そこが宝塚の男役の非常に輝くところである。
 歌舞伎の女形も、男の見る一番いい女である。性格なり、スタイルなり、行動なり、すべてにおいて一番いい女の典型なのである。だから歌舞伎の女形はほんとうの女以上に色気があり、それこそ女以上の女なんだ。そういう一つの、女ではできない女形の色気で歌舞伎が成り立っていると同じように、宝塚歌劇の男役も男以上の魅力を持った男性なのである。だからこれは永久に、このままの姿で行くものではないかと思う。
 元来、役者(歌舞伎)は家の芸というか、家業を継ぐものだ。素人がいくら器用でも、結局第一流の役者にはなれない。役者というものは、子供のときから舞台で、何もかも自然に覚える。中年からの役者でも、それは随分いい役者も出来るだろうけれど、歌舞伎ではそれが少ない。宝塚でもやはり雰囲気で名優をこしらえるねらいを多分にもっている。
 私はスイスの時計工の話をきいて感心したことがある。スイスの時計は世界的に有名であるが、スイスの時計職人のいいものは、みな親ゆずりで、親の、そのまた親というあんばいに、二代も三代も同じ仕事をやって、古ければ古いほどいい職人が生れている。そうして、自分一代ではどんな器用のものでも、第一流の時計職人にはなれないという話である。それと同じに、日本の歌舞伎というものも、それぞれ家の芸を承け継いで、それから自然に勉強して来なければならぬ。
 殊に女形に
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