東京市騒擾中の釣
石井研堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)来《きた》せし

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人心|恟々《きょうきょう》と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+僉」、第4水準2−4−39]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)これ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 騒擾と違警罪

 明治三十八年九月五日の、国民大会より、「警察焼打」といふ意外の結果を来《きた》せしかば、市内は俄《にわか》に無警察の状態に陥り、これ見よといふ風に、態々《わざわざ》袒《かたぬ》ぎて大道を濶歩するもの、自慢げに跣足《すあし》にて横行するもの、無提灯にて車を曳《ひ》くものなど、違警罪《いけいざい》者街上に充ち、転《うた》た寒心《かんしん》すべきこと多かりし。
 されば、人心|恟々《きょうきょう》として、安き心も無く、後日、釣船の宿にて聴く所によれば、騒擾《そうじょう》の三日間ばかりは、釣に出づる者とては絶えて無く、全く休業同様なりしといふ。左《さ》もあるべし。然るに、此の騒々しきどさくさ紛れを利用して、平日殺生禁断の池に釣垂れて、霊地を汚し、一時の快を貪りし賤民《せんみん》の多かりしは、嘆かはしきの至りなりし。当時、漁史の見聞せし一二事を摘録《てきろく》して、後日の記念とせんか。

 釣竿、奇禍《きか》を買はんとす

 六日の昼、来客の話に「僕は昨日、危く災難を蒙る所であッたが、想へば、ぞッとする」といふ。「国民大会見物にでも出掛けて……」と問へば、「否《いな》深川へおぼこ[#「おぼこ」に傍点]釣に出かけ、日暮方、例の如く釣竿を担《かつ》ぎ魚籃《びく》を提《さ》げて、尾張町四丁目の角から、有楽町に入ると、只事ならぬ騒らしい。変だとは思ッたが、ぶら/″\電車の路に従《つ》いて進むと、愈《いよいよ》混雑を極めてたが、突然|後方《うしろ》から、僕の背をつゝく者が有ッた。振り返ッて見ると、四十ばかりの商人体《あきんどてい》の男が、『彼方《あなた》、其様《そん》な刀の様な物を担いで通ッたら、飛んだ目に逢ひませう』と注意された。『何か有るのですか』と聞いたら、『今しも、内務大臣官邸はこれ/\で、』と、官民斬りつ斬られつの修羅《しゅら》を話された。『では、袋を外し、竿|剥《む》き出しにして、往きませう』と言ふと、『それが好《い》いでせう』と、賛成してくれるので、篤《あつ》く礼を述べて別れ、それから、竿の袋を剥き、魚籃を通して担ぎ、百雷の様な吶喊《とっかん》の声、暗夜の磯の怒濤《どとう》の様な闘錚《とうじょう》の声を、遠く聞きながら無難に過ぎることが出来た。若《も》し、奇特者の忠告無く、前の様で、うッかり通ッたもんなら、何様《どん》な奇禍を買ッたか知れなかッたが」と言へり。危《あやう》かりしことかな。

 浅草公園の公開? 釣堀

 六日の夜は、流言の如く、又焼打の騒ぎあり、翌七日には、市内全く無警察の象《しょう》を現はしけるが、浅草公園の池にては、咎むる者の無きを機《き》とし、鯉《こい》釣大繁昌との報を得たり。釣道《つりどう》の記念に、一見せざるべからずとなし、昼飯後直ちに、入谷《いりや》光月町を通り、十二階下より、公園第六区の池の端《はた》に、漫歩遊観《まんぽゆうかん》を試みたり。
 到り観れば、話しに勝《まさ》る大繁昌にて、池の周囲には、立錐の余地だに無く、黒山の人垣を築けり。常には、見世物場の間に散在して営業する所の「引懸釣」、それさへ見物人は、店内に充溢するに、増して、昨日|一昨日《おととい》までは礫一つ打つことならざしり泉水《せんすい》の、尺余の鯉を、思ふまゝに釣り勝ち取り勝ちし得べき、公開? 釣堀と変りたることなれは、数《す》百の釣手、数《す》千の見物の、蟻集麕至《ぎしゅうくんし》せしも、素《もと》より無理ならぬことにて、たゞ、盛なりといふべき光景なるに呆れたり。

 竿持てる人々

 中島に橋、常に、焼麩《やきふ》商ふ人の居し辺は、全く往来止めの群衆にて、漁史は、一寸《ちょッと》覗きかけしも足を進むべき由なく、其のまゝ廻りて、交番の焼け跡の方に到り、つま立てゝ望む。
 東西南北より、池の心《しん》さして出でたる竿は、幾百といふ数を知らず、継竿、丸竿、蜻蛉《とんぼ》釣りの竿其のまゝ、凧《たこ》の糸付けしも少からず見えし。片手を岸なる松柳にかけたるもの、足を団石《だんせき》の上に進め、猿臂《えんぴ》を伸ばせる者、蹲踞《そんきょ》して煙草を吹く者、全く釣堀の光景|其《そ》のまゝなり。
 竿持てる者には、腹がけに切絆天《しるし
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