。
小村井に入りし時、兼《かね》て見知れる老人の、これも竿の袋を肩にし、疲れし脚曳きて帰るに、追ひ及びぬ。この老人は、本所横網に棲む、ある売薬店の隠居なるが、曾《かつ》て二三の釣師の、此老人の釣狂を噂するを聴きたることありし。
甲者は言へり。『彼《か》の老人は、横網にて、釣好きの隠居とさへ言へば、巡査まで承知にて、年中殆んど釣にて暮らし、毎月三十五日づゝ、竿を担ぎ出づ』といふ『五日といふ端数は』と難ずれば、『それは、夜釣を足したる勘定なり』と言ひき。
又乙者は言へり。『彼の老人の家に蓄ふる竿の数は四百四本、薬味箪笥の抽斗数に同じく、天糸《てぐす》は、人参を仕入るゝ序《ついで》に、広東《かんとん》よりの直《じき》輸入、庭に薬研状《やげんなり》の泉水ありて、釣りたるは皆之に放ち置く。若《も》し来客あれば、一々この魚を指し示して、そを釣り挙げし来歴を述べ立つるにぞ、客にして慢性欠伸症に罹らざるは稀なり。』と言ふ。
兎も角、釣道の一名家に相違無ければ、道連れになりしを、一身の誉れと心得、四方山《よもやま》の話しゝて、緩かに歩《あし》を境橋の方に移したりしに、老人は、いと歎息しながら一条
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