たツた一度往ツて見給へ。彼奴《きゃつ》を引懸けて、ぶるぶるといふ竿の脈が、掌に響いた時の楽みは、夢にまで見るです。併し、其れが病みつきと為ツて、後で恨まれては困るが…………。』
 客『幾らか馴れないでは、だめでせう。』
 主『なアに釣れるですとも。鮒ほど餌つきの良い魚[#「餌つきの良い魚」に傍点]は無いですから、誰が釣ツても上手下手無く、大抵の釣客《つりし》は、鮒か沙魚《はぜ》で、手ほどきをやるです。鯉《こい》は、「三日に一本」と、相場の極ツてる通り、溢《あぶ》れることも多いし、鱚《きす》、小鱸《せいご》、黒鯛《かいず》、小鰡《いな》、何れも、餌つきの期間が短いとか、合せが六ヶ《むつか》しいとか、船で無ければやれないとか、多少おツくうの特点有るですが、鮒つりばかりは、それが無いです。長竿、短竿、引張釣、浮釣、船に陸《おか》に何れでもやれるし、又其の釣れる期間が永いですから、釣るとして不可なる[#「釣るとして不可なる」に傍点]点なしで、釣魚界第一の忠勤ものです。
 主『殊に、其の餌つき方[#「餌つき方」に傍点]が、初め数秒間は、緩く引いて、それから、徐《しず》かにすうツと餌を引いてく。其の美妙さは、全《まる》で詩趣です。
 主『沙魚も、餌つきの方では、卑下《ひけ》を取らず、沢庵漬でも南京玉でも、乱暴に食い付く方ですが。其殺風景は、比べにならんです。仮令《たとえ》ば、沙魚の餌付[#「沙魚の餌付」に傍点]は、でも紳士の立食会に、眼を白黒して急《せ》き合ひ、豚の骨《あら》を舐《しゃぶ》る如く、鮒は[#「鮒は」に傍点]妙齢のお嬢さんが、床の間つきのお座敷に座り、口を細めて甘気の物を召し上る如く、其の段格は全で違ツてるです。
 主『合せ方[#「合せ方」に傍点](引懸けるを合せといふ)といふて、外に六ヶしいことなく、第一段で合せて、次段で挙げる丈けですが…………。』
と言ひかけしが、起《た》ちて、椽側の上に釣れる竿架棚《さおだな》の上なる袋より、六尺程の竿一本を抽《ぬ》き取り来りて、之を振り廻しながら、
 主『竿は長くても短くても、理窟は同しですが、斯《か》う構へて中《あた》りを待ツてるでせう。やがて、竿頭《さおさき》の微動で、来たなと思ツても、食ひ込むまで、構はず置くです。鮒ですから…………。幾らか餌を引いてくに及んで始めて合せる[#「合せる」に傍点]です。合せるとは引くことで
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