燒セせらるゝ観念である。中世時代にあつて人々が自己の肉体を飢渇、汚物等によつて苦しめ弱めんと計り、疫病に神罰を認め苦行によつてその救済を計らんとせる時吾人が今日有するが如き衛生上の観念は微塵もなかつたのである。個人が健康を神の意志なりと認め、各自の健康を増進することを以てその義務なりと見做し、地上の生命が善良なるものと認められ、社会が科学の活動を健康の法則に適用し、疾病を征服し、生命を延長する事を以てその義務なりと考ふるに至るまでは人々は健康衛生に対して何等の観念をも有してゐなかつた。健康は次第にそれ自からを目的にするやうになつて来た。而して幸福はそれが他の目的の為に有用なるか或は無用なるかを問はずそれ自からの為めに努力することを吾人は承認しなければならないやうになつた。然るに今日に於てもなほ自己の精神生活によつて病体を維持してゐる人々がある。又自己の健康を増進せんとする良心を有しながら不幸にしてそれを失つてゐる人も沢山ある。或は自己の健康に対して過大の注意を払ふ利己的の人があり、自己の健康を更らに高き目的の為めに犠牲にして惜しまざる博大の心を有する人もある。然しこれ等はすべて各個人が自己の健康を自己及び社会に大なる直接の価値あるものとして取扱ひ、単に他人の為めのみならず自己の健康の幸福のために努力することを以てその権利でもあり義務でもあると考へてゐる一般の法則を破壊してはゐないのである。他の言葉を以て云へば中世紀に於ける観念はこの場合に於て全く顛倒されたのである。
来るべき時代はこれと同じく現在に於ける恋愛の観念を悉く顛《くつ》がへすであらう。現在に於ける恋愛の観念はかの中世紀の健康に対する観念と等しく人生にとつて有害なるものである。此価値の転換或は変化は健康に関して私の述べた場合と同じく恋愛に於ける様々なる条件の現出を妨げないであらう。併し要するに各個人が自己の恋愛を自己と社会に対し両《ふた》つながら大なる価値ありと信じ、この幸福のための努力を以て自からの権利であり、義務であると思惟する上にその最大の主張が置かれなければならない。
私のこの見解に対してフエルスタア博士は懇切なる批評をせられた。博士の批評は基督教の禁慾的人生観から見れば極めて自然のことである。氏の意見に従へば俗社会の律法並びに宗教的権威に服従することが更らに高き進化に進む唯一の道である。自己の
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