した。ですから、僕がそれと気が付いた時、これが密室を開く鍵ではないかと思ったのですよ。けれども、発見当時の刻限は恰度反対でして、生憎※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓から陽差が遠ざかっていたのです。ですから、改めてそこに、新しいフィルターを探さねばならなくなりました。所が、画像に運動感を与え、一人の白衣を被った人物を、その眩影の中に隠してしまう――と云う不可思議な作用が、階上にある浄善の屍体の中にあったのですよ」
「君は、何を云うんだ?」検事は思わず度を失って叫んだ。
「そうなんだ支倉君。あの屍体――いや動けない生体が、自転したからなんだよ。たしか君は、四肢の妙な部分に索痕が残っていたのを憶えて居るだろうね。あんな所を何故犯人が縛ったかと云えば、精神の激動中に四肢の一部を固く縛って血行を妨げると、その部分に著しい強直が起るからなんだ。それと同じような例が、刑務所医の報告にもある事で、死刑執行前に殆んど知覚を失っている囚人の手首を縛ると、全部の指が突張ってピインと強直してしまうそうだがね。この事件でも犯人は奇怪な圧殺をする前に、浄善の手足に紐を結び付けて置いたのだよ。それを詳しく云うと、まず両膝と両肘を立てて、腕は上膊部の下方、肢は大腿部の膝蓋骨から少し上の所を、俗に云うお化け結びで緊縛して置いたのだ。それから、その緊縛を右膝と左腕、右腕は左膝と結び付けて、その二本の紐を中央で絡めグイと引緊めたので、浄善は頗る廻転に便宜な、まるで括猿みたいな恰好になってしまった。そうして置くと、やがて強直が始まるにつれて、当然関節の伸びる方向が違うからね。二本の紐が反対の方向に捻れて行って、浄善の身体が廻転を始めたのだ。そして、強直が極度になってピインと突っ張ってしまう頃には、それに加速度も加わって、まるで独楽のような旋廻になってしまったのだよ。そう判ると、格子扉から落ちて来る唯一の光線の中で、宛ら映写機のフィルターのように旋廻していたものがあった――それが取も直さず、浄善だったと云う事が判るだろう。勿論それが、千手観音に運動錯覚を起させて、目撃者に細かい識別を失わせてしまったのだ。事実、犯人は至極簡単な扮装で、画像の前に、像の衣の線と符合するように立っていたのだったよ。そして、それ以前に、まず屍体を廻転させて、それが頂点に達した時紐を解いたのだ――無論加速度で、暫くは廻転が止まなかったと、思わなければならないだろう。それから犯人は、笙の鳴り出す時刻に近附いたので、頃やよしと階下に下りて行った。所が、智凡尼は入るとすぐ、千手観音の画像が不気味な躍動をしているのを、発見したのだったけれども、これは屡出逢う事で、とうに脳裡の盲点になっていたのだから、当然気にしなかったと同時に、その時階下が、誰もいない空室だったと誤信してしまった。で、その一瞬後に、階上に動いている影を発見したのだったけれども、嵌格子を斜下から眺めて、そこに影らしい珍しいものが、チラッと映じたのみの事で、それをすぐに確かめようとはしなかった。と云うのは、横手にある異形な推摩居士を発見したからなんだよ。それから推して考えると、推摩居士を階段の上り口に下ろしたと云うのは、その殆んど全部の目的が、フィルターの正体を曝露させないために、すぐ目撃者の注意を、惹くためだったに相違ない。斯うして、精密な仕掛を種に錯視を起させて、やがて智凡尼が二階へ上った隙に、明け放した網扉から脱け出したのだが……。さて、残った謎と云うのは、笙がどうして鳴らされたか――と云う一事なんだよ。階下に潜んでいる犯人が、階上の笙を吹けると云う道理はないし、それとも、事実二階に人間がいたとすれば、密室の中へ、更にもう一つの密室が築かれてしまうのだよ」
「ウン、浄善の姿勢が変ったと云う事だけは、不自然に作られた強直が絶命後に緩和するからね。それは、それで解るにしても……」と検事が合槌を打った時に、青白い光が焼刃のように閃いて雷鳴が始まった。雷の嫌いな法水は、鳥渡顔色を変えたが、そのためか一層蒼白になって、凄じい気力を普光尼に向けた。
「そこで、私は最後の断案を下したいのですが、それを云う前に、先日秘かに試みた心理試験の結果をお話する事にしましょう。と云うのは、推摩居士の行衣にある瓢箪形の血痕を、各人各様に見た印象が素因《もと》なのです。所が、貴女だけは、それを知らない――と答えましたっけね。私は、あれ程特異な形を知らないと云う言葉に、異様な響きを感じて、早速その分析を始めました。そして気がついたのは、私と貴女とでは、目的とするものが全然異なっていると云う事なんです。言葉を換て云えば、貴女は私の術中にまんまと陥ってしまったのですよ。実を云うと、あの心理試験を用いた真実の目的と云うのは、決して瓢箪形の血痕にあるのではなくて、寧ろ智凡尼が英仏海峡附近の地図と云った、下の血痕との間に挾まれている溝にあったのです。貴女が知らないと答えたのは、あのU字形の溝なんですよ。ねえ普光さん、聯想と云うものは、非常に正確な精神化学《メンタル・ケミストリー》なんですよ。あの二つの伝声管を繋いだとしたら、それがU字管になるでしょうからね。するとU字管には色々な現象が想像されますが、さしずめ、一本の伝声管の端に銛を作ったと仮定しましょう。そして、それに空気を激突させるような仕掛を側に置いたとしたら、そこでは下らない雑音に過ぎないものが、管の気柱を振動させて二階の孔からどう云う音響となって飛び出しますか――その事はとっくに御承知の事と思われます。いや、笙の蜃気楼を作った貴女の魔術を、私が此処でくどくど説明する必要はないのですよ。とうに貴女は、それを問わず語らずのうちに告白してしまっているのですからね」
 法水論理と巧妙なカマに掛かって、普光尼は一溜りもなく、その場に崩れ落ちてしまうものと思われた。所が意外にも、彼女の態度が見る見る硬くなって行って、やがて厳粛な顔をして立ち上った。
「いいえ、どうあろうと一向に構いませんわ。仮令《たとえば》、私が犯人にされた所で、菩薩にあるまじき邪悪の跡に、反証を挙げてさえ頂ければ……。けれども、孔雀明王が残した吸血の犯跡が、依然として謎である以上は、貴方の名誉心のために払わされる犠牲が、余りに高価過ぎやしないかと思われるのです。それよりも、寂蓮尼が期待している推摩居士の復活の方が、どうやら真実に近附いて行きそうですわ。この暑熱の些中に、一向腐敗の兆が見えて来ないのですから」
 斯うして、法水の努力も遂に徒労に終って、階下の密室が解けたと思うと、その一階上に、更に新しいものが築かれてしまった。が、法水は一向に頓着する気色もなく、その日は他の誰にも遇わず、経蔵の再調査だけをして、囂々《ごうごう》たる大雷雨の中を引上げて行った。所が、それから五日目の夜、突然検事が招かれたので法水の私宅を訪れると、彼は憔悴し切った頬に会心の笑を泛かべて云った。
「やはり支倉君、僕は考える機械なんだね。書斎に籠ると、妙に力が違って来るように思われるんだ。とうとう孔雀明王の四本の手を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]いでやったよ。然し、それは偶然思い付いたのでなくて、例の浄善尼がした不思議な旋廻が端緒だったのだ」
 それから、法水の説き出し行く推理が、さしも犯人が築いた大伽藍を、見る見る間に崩して行った。そして、夢殿殺人事件は、漸くその全貌を白日下に曝されるに至った。
「所で、君にしろ誰にしろ、結局行き詰まってしまうにしてもだ。浄善尼が奇術的な廻転をした事が判ると、一応は、飛散した金泥に遠心力と云う事を考えるだろうね。そして、あの四本の玉幡が気になって来るのだが、あんな軽量なものには、たとえばそれを廻転させたにしても、結局それだけの分離力のない事が明らかなんだからね。あの一番手近な方法を、残り惜し気に断《あきら》める事になってしまう。けれども、あの玉幡に、重量と膨脹とを与えたとしたらどうなるだろう」
「なに、重量と膨脹を!」検事は眩惑されたような顔になって叫んだ。
「うん、そうなんだ支倉君、結局そう云う仮定の中に、犯人の怖ろしい脳髄が隠されていたのだよ。とにかく、順序よく犯行を解剖して行く事にしよう。所で、事件の直前から、犯人が夢殿の中に潜伏していたと云う事は、当時各自の動静に、確実な不在証明《アリバイ》が挙がらなかったのを見ても明らかだろう。だが、却ってそれが、この場合逆説的な論拠になるとも云えるんだ。そして、何処に隠れていたかと云う事は、あの当時の夢殿が、油火一つの神秘的な世界だったのだから、それは改めて問う迄もない話だろう。所で、浄善の昏倒と推摩居士の発作が適確なのを確かめると、犯人は四本の玉幡を合せて、繍仏の指に凸起《とっき》のある方を内側にして方形を作り、それを三階の突出床の下に吊して置いたのだ。そして、愈《いよいよ》画中の孔雀明王を推摩居士の面前に誘《おび》き寄せたのだが……、そうすると支倉君、あの神通自在な供奉鳥は、忽ちに階段を下り、夢中の推摩居士に飛び掛かったのだよ」
 そう云ってから法水《のりみず》は、唖然とした検事を尻眼にかけて立ち上り、書棚から一冊の報告書めいた綴りを抜き出した。そして、それを卓上に置き、続けた。
「もとより画中の孔雀が抜け出すと云う道理はないけれども、それが孔雀明王の出現と云えるのには他に理由がある。と云うのは、推摩居士の異様な歩行が始まったからなんだ。君は、ヒステリー痲痺患者の手足に刺戟を与えると、様々不思議な動作を演ずると云う事実を知っているだろう。然しその前に、所謂体重負担性断端――それを詳しく云うと、義足を要する肢のどの部分が、足蹠《あしうら》のように体重を負担するか、その点を是非知っていて貰いたいのだ。で、推摩居士にはそれが何処にあるかと云うと、現に義足を見れば判る通りで、腓骨の中央で切断されている擂木の端にはなく、却って、膝蓋骨の下の腓骨の最上部にある。そして、それ以下の擂木は、義足の中でブラブラ遊んでいるのだ。つまり、足蹠《あし》の作用をするものの所在が、非常に重大な点なのであって、無論犯人は、その部分に刺戟を与えたのだったよ。それは云う迄もなく、正気ならば、膝蓋骨を下につけて歩くに違いない。けれども、夢中裡の歩行では、永い間の習慣からして、体重をかけていた腓骨の最上部を床に触れ、それを足蹠の意識にした直立の感覚で歩くのが当然なんだ。恐らく、さぞや重心を無視した滑稽な歩き方をした事だろうがね。然し義足を外した推摩居士には、それが一番自然な状態なんだよ。そうすると、推摩居士の足は栄養が衰えていて、目立った羸痩《るいそう》を示しているのだから、当然、その部分の菱形を中心にして、三稜形をした骨端と、膝蓋骨の下端に当る部分とが合したもの――それが、てっきり孔雀の趾跡のように見えはしないだろうか。そして、礼盤から離れて行った跡が、恰度前方から孔雀が歩んで来た跡に符合したと云う訳なんだよ」
「ああ」検事は溜らなく汗を拭いて、「だが、どうして推摩居士は三階へ上って行ったんだ?」
 法水は卓上の一書をパラパラとめくって、最後に指で押えた頁を検事に突き付けた。
「支倉君、君はヒステリー患者の五官のうちで、何が一番最後に残るか――、それが視覚だと云う事を知っているかね。また、その中でも赤色だけは、発作中でさえも微弱に残っているのだ。勿論、巫術[#「巫術」は底本では「※[#「一/坐」、204−下−15]術」]などでは、巧《たくみ》な扮飾を施して、それを恐ろしい鬼面に捏《で》っち上げるのだが、現在僕の手に、それを証明する恰好な文献があるのだ。とにかく、その件りを読んでみよう。――(一九一六年十月、メッツ予備病院に於いてドユッセンドルフ驃騎兵聯隊附軍医ハンス・シュタムラアの報告)余の実験は、該患者に先登症状なる震顫を目撃せしに始まる。まず円筒形の色彩板を持ち出して、それを紫より緩く廻転を始めたるに、最終の赤色に至りて、同人は突如立ち上り、その赤色を凝視しつつ色彩板の周囲を歩み始めた
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