り。此処に於いて、余は新規の実験を思い出し、同人の面前に赤色の布を掲げて、銃器を両壁に並べし通路の中に導き入れたり。然るに、その際興味ある現象を目撃せりと云うは、余が屡《しばしば》赤布を側《かたわら》の壁際へ寄せたるに、同人もまたそれに応じて、埋もれんばかりに身体《からだ》を片寄せるかと思えば、また銃器に触れると、同時に身体を離し、その儘静止する事もありき。その現象は数回に渉り同一の実験を繰返して、結局確実なるを確かめたり。即ち、全身に斑点状の知覚あるためにして、その部分が銃器に触れたる際には、横捻が起らざりしものと云うべし)――」
読み終ると、法水は椅子を前に進め、徐《おもむろ》に莨に火を点じてから、云い続けた。
「所で支倉君、そこに推摩居士を導いたものと、もう一つ、傷跡に梵字の形を残したものがあったのだ。勿論、犯人が、赤色の灯を使って、推摩居士を導いた事は云う迄もないだろう。そして、三階の階段口にある突出床から、下に方形の孔を開いている玉幡の中へ落し込んだのだ。また、それ以前に犯人は、繍仏の指の先に、隠現自在な鉤形をした兇器を嵌め込んで置いたのだが、その兇器は、その場限りで消え失せてしまったのだよ。で、最初まず、如何にして梵字形の傷跡が出来たか――それを説明しよう。一口に云えば、最初に向き合った二つの鉤が、推摩居士の腰部に突き刺り、それが筋肉を抉り切ってしまうと、続いて二度目の墜落が始まって、それまで血を嘗めていなかった残り二つの鉤が、今度は両の腕に突っ刺ったのだ。つまり、そこには到底信ぜられない、廻転がなければならない。けれども、それは勿論外力を加えたものではなくて、その自転の原因と云うのは、推摩居士の身体に現われた、斑点様の知覚にある事なんだよ。最初腰に刺さった二本がどうなったかと云うと、体重が加わって筋肉を上方に引裂いて行くうちに、左右のどっちかが、知覚のある斑点の部分に触れたのだ。そうすると、当然その部分に触れる度毎に、それから遠ざかろうとして身体を捻るだろうから、偶然そうして描かれて行った梵字様の痕跡が、左右寸分の狂いもなく、符合してしまったのだよ。つまり一口に云えば、推摩居士の自転が、轆轤の役を勤めたと云う事になるのだけれど、最後に筋肉をかき切って支柱が外れた際――その時、捻った余力で直角に廻転して墜落したのだった。そして、その肩口をハッシと受け止めたと云うのが、残り二側の玉幡だったのだよ」
「そうすると、傷の両端が違っているのは?」
「それでは支倉君、硬度の高い割合に、血液のような弱性のアルカリにも溶けるものを、君は幾つ数える事が出来るね。例えば、烏賊《いか》の甲のような、有機石灰質を主材に作ったとしたら、その鉤は血中で消えてしまって、脱け出した時には、それが繍仏《ぬいぶつ》の硬い指尖に化けてしまうだろう。然し、その変化の中に、驚くべき吸血具が隠されていたのだ」そうして、法水の推理が愈眼目とする点に触れて行ったが、その真相を聴いた検事は、思わず開いた口が塞がらなかった。どうしてあの時、曼陀羅を一本だけでも切ってみなかったのだろうか。
「つまり、一番複雑に思われるものが一番簡単なんだよ。あの曼陀羅を作った原植物と云うのが、毬華葛《まりげかずら》の干茎だからさ。シディの呪術には、あの茎とテグス植物の針金状の根とが、非常に巧みに使われていて、それを馬鹿な馬来人《まれいじん》が驚いている始末だがね。あの茎の内部にある海綿様繊肉質は血であろうと何んであろうと、苟《いや》しくも液体ならば、凡て容赦しない。つまり、あの曼陀羅と云うのは数千本の茎を嵌め込みにした結び目なしのものなんだから、その最後の一寸にまでも、繍仏の指頭から推摩居士の血液を啜り込む事が出来たのだよ。勿論そう云う吸血現象があったがために、下方に流れた血が少なかったのだ。だが支倉君、当然そうなると、そこに重量と膨脹と云う観念が起って来るだろう。実は、浄善尼を扼殺した四本の手も、同様其の中に蠢いていたのだよ。で、血を吸い尽した曼陀羅の干茎が、無気味に膨脹すると云う事は、斯う判れば、改めて云う迄もない事だろう。けれども、一方全長に於いても、恐らく五分の一以上も伸びたに違いないと云うのは、階段に血痕を残さず、推摩居士を上り口に下ろしたのを見ても判る事なんだ。つまり浄善尼は、重量の加わった玉幡の裾を咽喉に当てられ、おまけに、猛烈な廻転までもさせられてしまったので、結局それが、頸椎骨の脱臼までも惹き起す原因になってしまったのだよ。そこで、犯人はどうしたかと云うと、玉幡を吊した紐の片方を、階段の上層の壁に持って行って、膨らんで推摩居士をしっくりと包んでいる、玉幡を動かして行った。そして、四つの幡を合せた剔《えぐ》り紐を引き抜いて、予《あらかじ》め両脇に廻らして置いた紐を徐々に下ろして行ったのだ。それから、吊り紐を旧通《もとどおり》の位置にしてから、その裾を二列に合せて、四つの幡の裾を浄善の咽喉に当てたのだがね。然し、その頃から、干茎中の血液が次第に消失して行ったのだったけれど、それは前以って、自分の着衣に血痕を残さないため、犯人が小窓を開いて置いたからなんだ。当然そこからは、灼熱せんばかりの日光が差込んで来る。ねえ支倉君、血液の九〇%以上は水分なんだぜ。それが蒸発した後は、無論以前と大差ない重量になってしまうのだ。然し、その減量と収縮は、僕等が到着する迄の、二時間余りの時間内に終ってしまったのであって、発見した際に尼僧達は、玉幡の膨脹には気が付かなかったのだ。そうしてから、犯人は、愈最後の幕切れになって、あの金色燦然たる大散華を行ったのだよ。と云うのは、無論浄善の廻転にある事だが、その時尼僧の咽喉に喰い入っていた玉幡が、どう云う状態にあったかと云うと、急激な膨脹と収縮が相次いで起ったために、表面の金泥が浮き上って剥離しかかっていた所なので、あの猛烈な遠心力が、一気に振り飛ばしてしまったのだ。だが、そうした玉幡の廻転は、階下にいる推摩居士にも影響して、その瀕死の視覚に映じたものがあった。君は推摩居士が、「宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいる」と云った言葉を憶えているだろう。可成り神秘感を唆る文句だけれども、その正体と云うのは、一種の異常視覚に過ぎないのだ。つまり、格子戸の桝目に映った火焔太鼓の楕円形が、玉幡の円孔《まるあな》の現滅につれて、或は孔雀の輪羽のように見えたり、また円孔が現われない時には、その二つ三つだけが残ったりして、結局推摩居士に、そう云う錯視を起させたに違いないのだよ」
検事は聴くだけでも相当疲労を覚えたらしく、彼は夢の中のような声を出した。
「すると密室は? 君が切り開いた中にもう一つあったのは?」
「それは、密室と云うよりも、笙がどうして自然に鳴ったかなんだよ」法水は几帳面な訂正をして、「それから犯人は、笙に仕掛を施して、その後に、玉幡を切り落してから階下へ下りたのだがね。所で君は、酒精《アルコール》寒暖計を知っているかね――細い管中の酒精《アルコール》が熱で膨脹すると云うのを。つまり犯人は、笙の吹き口に酒精《アルコール》を詰めて、それを縦にした根元を日光へ曝したのだ。そうすると当然膨脹した酒精は、中の角室の空気を圧し出して弁を唸らせる。所が、その一部が管中から吹き出てしまうので、それが竹質に吸収されて、膨脹は一端止み酒精は下降する。つまり、それが何遍となく繰返されるので、吹手が息を入れるような観が起る。そして、やがてそのうちに、酒精は跡方もなく消え失せてしまったのだ。だが支倉君、斯うして犯行の全部が判ってしまうと、犯人がヒステリー患者の奇怪な生理を遺憾なく利用したと云うばかりでなく、たった一つの小窓に、千人の神経が罩められていた事が判るだろう」
検事は息を詰めて最後の問を発した。
「そうすると犯人は――一体犯人は誰なんだ?」
「それが、寂蓮尼なんだよ」と法水は沈んだ声で答えて、熱した頬を冷やすように窓際へ寄せた。
「たしか、あの日に寂蓮尼が、大吉義神呪経の中にある、孔雀吸血の伝説と云う言葉を云ったっけね。所が、調べてみると、その経文の何処にもそんな章句はない。けれども、僕は経蔵の索引カードの中から、異様な暗合を発見したのだ。と云うのは、いつぞやの『ウエビ地方の野猟』と、大吉義神呪経の図書番号とが、入れ違いになっている事なので、意外にも片方になかった記述が、セントジョンの著述にある挿話から発見されたのだよ。それは、ケラット土人の伝説なんだ。孔雀が年老いて来ると、舌に牙のような角質が生えるそうだが、それを他の生物の皮膚に突き刺し、血液の中に浸して置くと、その角質が忽ち、ポロリと欠け落ちてしまう――と云うのだがね。すると支倉君、推摩居士に加えた殺人方法が、そこから暗示されているとしか思われまい。つまり、寂蓮が示威的な嘘を作ったものには、自分だけしか知らない、入れ違っている図書番号の聯想が現われたからなんだ。然し、動機は一言にして云い尽せるよ。奇蹟の翹望なんだ。ユダ(ユダの叛逆は耶蘇に再生の奇蹟を見んがためと云われる)、グセフワ(奇蹟を見んがために、ラスプチンを刺そうとした露西亜婦人)、そして寂蓮さ。けれども、あれほど偉い女が、水分を失った屍体が木乃伊《ミイラ》化する事実を、知らぬ筈はないと思うがね。それさえも忘れさせて、あの凝視を続けている所を見ても、神秘思想と云うものの怖しさが……、どんな博学な人間でさえも、気狂い染みた蒼古観念の、ドン底に突き落してしまう事が判るだろう。ねえ支倉君、もう永い事はあるまいから、あの女には○○○○○待ってやる方がいいよ。それが、この陰惨な事件にある、ただ一つの希望なんだからね」
底本:「小栗虫太郎全作品4 二十世紀鉄仮面」桃源社
1979(昭和54)年3月15日発行
底本の親本:「二十世紀鉄仮面」桃源社
1971(昭和46)年11月15日初版
初出:「改造」改造社
1934(昭和9)年1月号
入力:ロクス・ソルス
校正:Juki
2006年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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