居士の死因に就いて、驚くべき説を云い出したのである。
「推摩居士は、御自分で美しい奇体な墓場をお作りになって、その中で、仮死の状態に入られたのではないかと思いますわ。やがて屹度、あの方は蘇えるに違い御座いません。それから、浄善さんの死因に就いては、智凡さんが確《しっ》かりした説を持っていらっしゃいますが」
「なに仮死ですって。たしか貴女《あなた》は、いま仮死と云われましたね」検事は眼を円くして聴き咎めた。
「左様で御座います。現実その証拠には、内臓が損われて居りませんし、また、事実些程の出血がなかったにも拘らず、てっきり大出血を思わせるような虚脱状態が現われて居ります」と寂蓮尼はキッパリと云い切ってから、「そうしますと貴方は、ハニッシュの天啓録をお読みにはならなかったのですね。瑜珈式呼吸法は? ベエゼルブブの呪術は? ダルヴィラやタイラーの著述は如何で御座いますか」
「遺憾ながら、いずれもまだ読んでは居りません」と法水は、アッサリ、ブッ切ら棒な調子で答えたけれども、続いて俄然挑むような態度に変って、「所が寂蓮さん、もう後六時間と経たぬ間に、推摩居士の内臓は寸断されなければならないのですよ」
「エッ、解剖を!」寂蓮尼はのけぞらんばかりに驚いたらしく、彼女の全身に、まるで眩暈を感じた時のそれのような動揺が起って行った。「何故生体に刀を入れる必要があるのです。庵主が大吉義神呪経の吸血伝説を信じているように、貴方がたも大変な誤ちを冒そうとして居ります。それこそ、適法の殺人者ですわ」
「それが、証拠の虚実を決定するものだとすれば……、一向構わんではありませんか」法水は冷然と云い放った。「たしか、ヴォルテールでしたね。ストリキニーネさえ混ぜれば、呪文でも人間を殺せる――と云ったのは」
 寂蓮尼は顔一杯に凄愴な隈を作って、憎々し気に法水を凝視《みつ》めていたが、やがて、襖を荒々しくたて切って、室を出てしまった。
「ねえ支倉君、たしかあの女は、推摩居士の巫術[#「巫術」は底本では「※[#「一/坐」、197−下−9]術」]の方に興味を持っているんだよ。どうやら、此の寺が二派に分れているとは思わんかね。そこに動機がある……」
 法水がそう云った時、智凡尼が入って来た。その、薄髭が生えて男のような骨格をした女は、座に着くと莨を要求してスパスパやりながら、
「莫迦らしいとはお思いになりませんか。推摩居士が、真実竜樹の化身ですのなら、何故南天の鉄塔を破った時のように、七粒の芥子《けし》を投げて、密室を破らなかったのでしょう」
「成程、それは面白い説ですね。所で貴女は、浄善の死因に就いて何か御存知なようですが」
「実は、誰にも云いませんでしたが、私、犯人の姿を見たのですわ」
「何んですって※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事は思わず莨を取り落したが、智凡尼は静かに語り始めた。
「済んだ合図の笙が鳴ったので、鍵箱から厨子扉の鍵を出して、網扉を明けますと、天井の格子に何か急いで複雑な動作をしているような影が映りました。そして、鳴っていた笙がピタリと止んでしまったのです。然しその時は、側の推摩居士に気が付いたので、私は暫くその場に立ち竦んで居りました。けれども、間もなく気を取り直して、階段の上まで上ってみますと、浄善さんはあられもない姿で、両袖で顔を覆って仰向けになって居りました。ああそうそう、その時階下には誰も居りませんでしたが……」
「そうしてみると、現在の浄善とは、屍体の状態が異う事になる」と云って検事が法水を見ると、法水も慄毛《そうけ》立った顔になっていた。
「浄善がその時まだ生きていたか、それとも屍体が動いたか――だよ。けれども、強直が来ない前は微動する訳もない筈だぜ」
「そうです。生きていた浄善は、その後に殺されたのですわ」智凡尼はグイと刳るような語気で云った。「だって、推摩居士が魔法のような殺され方をしているのを、眼前に見ながら、その側で凝っとしていると云う訳はないでしょう。それに、私がそれからすぐ飛び出して、その旨を庵主に告げると、庵主は夢殿に入ったきりで、暫く出て来なかったのですからね。私と寂蓮さんはその後に見に行ったのですが、その時は、浄善さんの姿勢が変ったと云うだけの事で、他にはこれぞと云う異状も御座いませんでした。つまり、浄善さんが推摩居士を殺して、その浄善を庵主が殺したのですわ。此の論理には、ともかく中断が御座いませんわね。多分それで、庵主は一番いい夢を見る、阿片を造る積りだったのでしょう」
 そして、智凡尼はゲラゲラ笑いながら、出て行ってしまった。法水も同時に立ち上った。
「僕は鳥渡経蔵を見て来るからね。君は、盤得尼から浄善の屍体に就いて、詳細な要点を聴取しといてくれ給え」
 それから一時間程経って、二度目の網扉の音がしたかと思うと、再び法水が現われた。そして、検事と獣のような顔で、睨み合っている老尼に慇懃な口調で云った。
「御安心下さい。智凡尼の偏見が、これですっかり解けましたよ。支倉君、やはり浄善は、発見した際には死んでいたのだ」と一冊の書物を卓子《テーブル》の上に置いて、「貴女が蒐められた書籍の中に、大変参考になるものがありましたよ。これは、ロップス・セントジョンの『ウエビ地方の野猟』なんです」
「それで、何か?」
「その中に斯う云う記述があるのです。――予の湖畔に於ける狩猟中に、朝食のため土人の一人が未明|羚羊《かもしか》猟をせり。然るに、クラーレ毒矢にて射倒したる一匹を、捕獲したる鬣狗《ハイエナ》の檻際へ置けるに、全身動かず死したりと思いし羚羊の眼が、俄かに瞳孔を動かし恐怖の色を現わしたり――と。ねえ支倉君、浄善は最初に、微量のクラーリンを塗った矢針で斃されたんだよ。つまり、羚羊と同じに、運動神経が痲痺して動けなくなったまでの事で、その眼は凝然《じいっ》と、怖ろしい殺人模様を眺めていたんだ」
「冗談じゃない」検事は此処ぞと一矢酬いた。「一体、何処に外傷があるんだ」
「それが、襟足にある短かい髪の毛の中なんだよ」と法水が掌を開くと、その中から、四寸程の頭髪の尖を、巧妙な針に作ったものが現われた。「所で、僕がどうして発見したかと云うに、普光が笙の鳴っている間に聴いたと云う、妙な音響からなんだ。板の間を踏むような、ドウと云う音が二度ばかりして、その二度目の直後に、ブーンと唸るような音が聴こえたと云ったね。では、仮りにそれを、太鼓の両側の皮を、内側から強く引緊めて置いて、全然振動を、起させないようにしたのを打ったとしよう。そして、二度目にその緊縛が解けたとしたら、凹みの戻った振動でもって、恰度そう云うような唸りが起りはしないだろうかね。案の状、その思い付きからして火焔太鼓を調べて見ると、果して其処に、三つ針穴程の孔が明いていた。つまり、そのうちの二つは、皮の両側を引き緊めた糸の痕であって、またもう一つのには、二度目の撥で糸が切れ、両側とも旧《もと》の状態に戻った時に、その反動を利用する、簡単な針金製の弩機が差し込まれてあったのだよ」
 そうして、浄善の死因に関する時間的な矛盾が一掃されてしまうと、法水は再び、盤得尼に云った。
「とにかく、その発見からだけでも、貴女に対する疑惑は稀薄になります。つまり、智凡が見たと云うのは、笙を吹いていた犯人の影と云う事になりますが、さてそうなると、浄善の屍体を動かした犯人が、その場は三階へ隠れたにしてもです。一体どうして、それから、あの場所を脱出したものか――問題は再び密室で行き詰まってしまうのですよ」
「それが取りも直さず、孔雀明王の秘蹟では御座いませんか?」と盤得尼は、透かさず眉を張って尚も執拗に奇蹟の存在を主張するのだった。それを、法水は冷笑で酬い返した。
「然し、この点だけは、誤解なさらないで頂きたいのです。貴女にしても、ただ智凡尼の推測から解放されたと云うだけで、つまり、謬説から遁れたと云う事は、正しい推定から影を消したと云う事にはなりませんからね。大体他の三人にしたところが、当時の動静を、的確に証明するものがない始末ですから。いずれ、僕が密室を切開した際に、改めて四人の顔を、膿の上へ映してみる事にしましょう」
 盤得尼が出て行ってしまうと、法水は衣袋《ポケット》から一枚の紙片を取り出した。それには、次のような文字が認められてあった。
[#ここから2字下げ]
黄色い斑点の中に赤黒い蝙蝠《こうもり》――盤得尼
全部暗褐色の瓢箪――寂蓮尼
真黒な英仏海峡附近の地図――智凡尼
普光尼は答えず。
[#ここで字下げ終わり]
「成程、心理試験か……」検事が訊ねるともなしに呟くと、この一葉の上に、法水が狂的な憑着をかけているのが判った。
「うん、推摩居士の行衣の右袖に、瓢箪形の血痕があったっけね。その印象を、僕は求めたのだよ。で、これを見ると、各自が一番印象をうけた時の位置と、大凡《おおよそ》の時刻が判るんだ。盤得尼のは階段を下りながら、正面から光線をうけた時眺めたものなんだ。寂蓮と智凡は横手からだが、陽差の位置に依って、眼に映った色彩が異っている。扨《さて》、これからどう云う結論が生れるか、今はまだ皆目見当がつかないのだがね。然しこれだけ集めるのに、僕は大変な犠牲を払ってしまったよ。寂蓮尼に、推摩居士の屍体を解剖しないと約束してしまったのだ」

  三、吸血菩薩の本体

 それから三日後に、法水と検事は再び寂光庵に赴いた。が、それまでに彼が得た情報と云えば、穴蔵に横たえた推摩居士の屍体に、瑜珈式仮死を信じている寂蓮尼が凄惨な凝視を始めた――と云う事のみだった。その食事も採らず一睡もしない光景からは、聴くだけでも、慄然《ぞっ》とするような鬼気を覚えるであろう。二人が寂光庵に着いた頃は、恰度雷雨の前提をなす、粘るような無風帯の世界であった。が、入るとすぐに普光尼を呼んだ。然し、法水だけは、案内の尼僧が去ると同時に室から出て、普光尼が来てから大分経って戻って来た。
「僕は貴女だけに聴いて頂いて、当時貴女が、伝声管から聴き洩らした音を憶い出して頂きたいのです。所で、その前に、犯人が一体どう云う方法で、密室から脱出したものか――それをまず、お話する事にしましょう」
 ああ、法水は何時の間にか、密室の謎を解いていたのだ。彼が語り始めた犯人の魔術とは、一体何んであったろうか?
「僕がこの説を組立てる事が出来たのは、多数の手や首を持っている、所謂多面多臂仏の感覚からなのです。所で、御承知の通り夢殿には、階下の正面に、殆んど等身大と思われる十一面千手観音の画像が掲っています。そして、僕がその感覚に気付いたと云うのは、恰度事件当日四時半頃の事なのでした。その時表面の厨子扉には、横手の※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓が黒漆の上に映って居りました。所が、それから網扉を開くと、正面の千手観音に不思議な運動が起るのを見たのです。と云うのは、最初厨子扉に映った※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子を見詰めて、それから網扉に嵌まっている縦桟の格障子を見たからなんです。つまり※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓の残像が縦桟の間に挾まって――そうした時に網扉を開いたのですから、当然一つの実像と一つの残像とが交錯して、そこに所謂驚盤現像(縦穴の並んでいる円筒を廻転させると、内部の物体が動くように見える活動写真的現像)が起らねばなりません。然しその現象は、網扉が眼前から去ると同時に、当然止むだろうと思うでしょうが、事実は、その後も暫く続いて居りました。多分、視軸に影響して廻転が続くので、それにつれて、やはり以前通りに動いたのでしょう。すると、眼前の十一面千手観音にどう云う現象が起ったと思いますね。臂を上方に立てている肩口の七本と、下に向けている腰辺の四本が……、各々が一本の手になってしまって、その手を左右に振っているかのような錯視が現われたのです。つまり、残像の列と符合している縦の線が、目撃者に動いたように見えたからなんですが、同時にそれにつれて、全身の線や襞が、不気味な躍動を始めて来ま
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング