が、その捜査は空しく終ってしまい、真夏の汗ばむ陽盛りに、鏡板の上に付いていなければならぬ筈の、何物をも発見されなかった。が、最後に至って、検事の眼が床の一点に凍り付いてしまった。彼が無言のまま指差した個所を、横合から透して見たとき、法水は、自分の心動を聴いたような心持がした。左手の推摩居士が坐っていた礼盤から始まって、三階へ行く階段の方角へ点々と連なっているのが、中央の塊状を中心に、前方に三つ後方に一つ、それぞれに鏃形《やじりがた》をした、四星形の微かな皮紋であって、その形は、疑うべくもない巨鳥の趾跡だった。しかも、前方から歩んで来て、礼盤の縁で止まっている。それを逆に辿って行くと、遂に三階の階段を上り切ってしまって、突出床から壁に添うて敷かれてある、竹簀の前で停まっていた。検事は前方の壁面を見上げて思わず声を窒《つ》めた。それ迄バラバラに分離していた多くの謎が、そこで渾然と一つの形に纏まり上っている。梵字形の創傷も、流血の消失も、浄善の咽喉に印された不可解な扼痕も……それ等凡て一切合財のものが、孔雀に駕し四本の手を具えた、「孔雀明王」の幽暗な大画幅の中に語られているのではないか。高さ四尺幅三尺程の大幅の中には、画面一杯に羽を拡げた印度孔雀に、駕し左右四つの手に、各《それぞれ》宝珠を捧げ説法の印を結んだ異形の女身仏が、背上の蓮台の上に趺座しているのだ。それは、如何にも密教臭い、病理的なヒステリカルな暗い美しさだった。しかも、輪羽の中芯を、密陀僧の朱が核のような形で彩取《いろど》っていて、その楕円形をした鮮かな点列だけが、暗い、血を薄めたような闇の中から泛かび上っていた。然し、そう云った秘密仏教特有の、喝するような鬼気と云うのが、この場合、単なる雰囲気にのみ止まってはいなかったのである。その中には、犯行にとどめられている様々異様な特徴が、一々符合し具体化されていて、それが幾つとなく、数え上げられて行くのだった。
「成程、素晴らしい犯人の制作です。これでは、画中から孔雀が脱け出して階段を下り、そうして鋭い爪で推摩居士を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]ったばかりではなく、更に、四本の手を伸ばした背上の菩薩が、浄善の首を絞めた――と云うより外にないでしょう」と一端法水は、夢見るような調子で呟いたけれども、それからすぐ、冷然と盤得尼に微笑み掛けた。「所が、庵主、この童話劇《メエルヘン・ショウスピイル》の結論は、結局菩薩の殺人と云う仮定に行き着いてしまうでしょう。然し、考えれば考える程、却って僕は、その逆説的な解釈の方に、惹かれて行ってならないのですよ」
「承わりましょう――一体何を仰言りたいのです」
盤得尼は屹然と額を上げた。
「要するに、接神妄想《シュルティ》なんですよ。これは、ボーマンの『宗教犯罪の心的伝染』と云う著述の中にある事実ですが、十六世紀の始めチューリッヒの羅馬加特力《ローマン・カトリック》教会に、所謂奇蹟が現われたのです。ある八月の夕方、会堂の聖像が忽然と消え失せてしまって、その代り、創痕から何まで聖像と寸分も異ならない肉身の耶蘇が、十字架の下に神々しい屍体を横たえているのです。しかも、その創痕と云うのが、皮膚の外部から作った傷ではなくて、斑紋様に、内部から浮き上っているものなのです。従って、当然|市中《まちじゅう》は大変な騒ぎとなりましたが、更に不思議な事には、翌朝になると、その耶蘇の屍体が何時《いつ》の間にか消え失せてしまっていて、旧通《もとどおり》、木製の耶蘇が十字架にかかっているのでした。所が、その後三世紀も奇蹟として続いて来たこの謎を、十九世紀の末になって、遂にジャストローが解いたのです。多分、聖痕と云う心理学用語を御存知でしょうが、あのフランス・カレッジの先生は、一人の田舎娘を見出して、それから聖像凝視が因で起る、一種の変態心理現象を発見したからなんですよ。で、そうなって………」と云いかけた法水の顔には、殺気とでも云いたいものが、メラメラと盛り上って来た。「そうなって、当時の瑞西《スイツル》を考えると、新教アナバプチスト派の侵入をうけていて、加特力《カトリック》の牙城が危胎に瀕していたのですからね。ですから、何んとはなしにその奇蹟と云うのが、司教の奸策ではないかと思われて来るのですよ。そうして、此の事件にも、私は奸悪な接神妄想《シュルティ》を想像しているのです」
その間盤得尼は、ただ呆れたようになって、相手の顔を見詰めていたが、キュッと皮肉な微笑を泛かべて云い放った。
「そうしますと法水さん、その司教と置き換えられた私は、一体何処から入って何処から出た事になるのでしょうか。実を申しますと、今も入口の網扉を私は故意《わざ》と半開きにして置いたのですよ。あの網扉の音は河原までも響きますし、厨子扉には、当時もやはり錠前が下りていたのです。それに、智凡尼が入った時には、二階で笙を吹いている者がありました。ねえ法水さん、この夢殿は密室だったのですよ。密閉された室の中で、一体孔雀明王と供奉鳥以外に誰がいた事になりましょうかね」
密室、しかもその中で、大量の血が消え失せてしまっている――。流石の法水も、ハタと行き詰まって、まざまざとその顔には、羞恥と動揺の色が現われた。
二、火焔太鼓の秘密
盤得尼が去ってから、尚も三階の一劃を調べたけれども、そこには何一つ発見されなかった。そして、再び二階に下りると、法水は油時計を指差して云った。
「判ったのは、たったこれだけさ。一時十五分に発見した時消えていたと云う油時計が、何故二時を指しているか――なんだ。その気狂い染みた進み方からして、犯人が小窓を開いた時刻が判るのだがね」
「そうすると、多分消えたのは、金泥が散った時じゃないだろうか」
「うん、まずそうだろうと思うが……」と法水は気のない頷き方をして、「所で、問題はこの油容器の内側にあるんだが……、現に今も見る通り、除《と》れ易い足長蚊の肢が一本、油の表面から五分許り上の所に引っ掛かっているだろう。肢鉤の方が上になっていて、右の方へ斜に横倒しになっている。所が、胴はその方向にはなくて、却って反対側に――肢から一寸許り離れた左の方で、これは、油の表面に浮かんでいるんだ。それから考えると、容器の辺《ぐる》りを、胴体が何周りかした事が判るじゃないか。つまり、還流が起った証拠なんだよ。大体油時計そのものが、頗る温度に敏感であって、夜中燈火兼用以外には使えない代物なんだ、だから、当然それに、陽が当った場合を想像しなくてはならんと思うね。つまり、それを一口に云うと、油の減量につれて、蚊の屍体が肢鉤のある点まで下って来たとき――その時、犯人は小窓を開いたのだ。そうすると、陽差が容器の下方に落ちて、熱した油が上層に向う事になるから、当然表面の縁に、還流が起らねばならないだろう。おまけに、油の流出が次第に激しくなって行くので、時刻が飛んでもない進み方をしてしまったのだ。だから支倉君、犯人が小窓を開いたのは、十二時四十分前後だと云えるんだよ」
「成程。然し、犯人が窓を開いた意志と云うのは、恐らくそれだけじゃないと思うね。或は、兇器を捨てるためにか……」
それを法水は、力のない笑い声を立てて遮った。
「では、探して見給え――決してありっこないからね。梵字の形が、左右符合しているのを見ただけでも、とうに僕は、人間の手で使うものでない――と云う定義を、この事件の兇器に下しているんだ。それよりも支倉君、孔雀の趾跡が一体どうして附けられたか――じゃないか。たとえば、推摩居士を歩かせたにした所で、たかが膝蓋骨の、三角形ぐらい印されるだけだからね」
「すると、何か君は?」
「うん、これは非常に奇抜な想像なんだが、さしずめ僕は、推摩居士に逆立ちをさせたいんだよ。それも掌を全部下ろさずに、指の根元で全身を支えるんだ」
「冗談じゃない」検事は呆れたような顔になって叫んだ。
「所が支倉君」と法水は真剣に顔を引き緊め、一歩一歩階段を下りながら云い始めた。「大体、其処以外には、何処ぞと云って、推摩居士の肉体に理論上ああ云う作用を、現わす部分がないのだからね。と云うのは、第二関節以下しかない、推摩居士の右の中指と左の無名指に、所謂|光指《グランツフィンガー》が現われているからなんだ。その根元に弾片をうけて神経幹が傷付いているので、君も先刻見た通りに、指尖が細く尖って青白く光っているんだ。然し、戦地病院などでは大神経幹と違い、決して包鞘手術などをやる気遣いはないのだけれども、傷口さえ治れば、日常の動作には事欠かないようになってしまうのだ。つまりそこに、レチェ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンが神経代償機能と名付けた現象が起るからなんだよ。繊維だけが微かに触れ合っている周囲の神経が、栄養や振動を伝えてくれて、その瀕死の代償をしてくれるからなんだ。所が、これは、外傷性ヒステリー患者の、実験報告にも現われている事だけれど……、周囲の神経が痲痺してしまうと、時偶《ときたま》その遮断されている神経のみが、他の筋肉からの振動をうけ、実に不思議千万な動作を演ずる事がある。それなんだよ支倉君、そこに奇想天外な趣向を盛る事が出来れば、或は推摩居士がいきなり逆立ちして、あの孔雀の趾跡を残しながら、歩き出しはすまいかと思われるんだ」
それから夢殿を出ると、その足で普光尼の室へ赴いた。普光尼はとうに意識を取り戻していたが、激しい疲労のために起き上る事は出来なかった。四十に近い、思索と理智に及んだ顔立ちで、顎を布団の襟に埋めながらも、正確な調子で答えて往った。
「誅戮などと云う怖ろしい世界が、御仏の掌《たなごころ》の中にあろうとは思われませんでした。私は推摩居士が悲し気に叫ぶ声を聴いたのです」
「なに、声をお聴きでしたか?」
「そうです。夢殿から庵主が出る網扉の音が聴こえて、それから間もなくの事でした。笙が鳴り出すと、それにつれてドウと板の間を踏むような音が聴こえました。そして、その二度目が聴こえると同時に、ブーンと云う得体の判らない響きがして、それなり笙も止んでしまったのです。それから二十分ほど後になってから、推摩居士が四本の手と叫ぶのを聴きましたが、二階のはそれだけで、今度は階下の伝声管から響いて参りました」
「すると、伝声管は二本あるのですね」
「ええ、階下の方は、恰度階段の中途で、横板と壁との間にありまして、それは、鳥渡判らない場所なので御座います。それで推摩居士が、今度は低い声で云うのでした」普光尼は幽かに声を慄わせ、異様な光を瞳の中に漂わせた。「宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいる――と斯う仰言《おっしゃ》るのでしたが、それから間もなく、二階で軽いものが飛び散るような音が始まりましたが、それが止みますと、今度はまた笙が鳴り出して――いいえ、無論それには、息を入れる所謂間が御座いましたのですわ。所が、その音は網扉が開くと同時に、パタリと止んでしまったのです。もう、これ以上、お耳に入れる事は御座いませんが」
「有難う。所で、推摩居士の屍体を御覧になりましたか?」と法水は、突然異様な質問を発した。
「ハア、先刻寂蓮さんと一所に……。それで、すっかり疲れてしまいましたのですが」
「すると貴女は、推摩居士の行衣の袖に、何を御覧になりましたね」
「サア一向に……。私、そんな事はてんで存じません」と普光尼は、いきなり突慳貪《つっけんどん》に云い放って、ふと首を向け変え夜具の襟に埋めてしまった。
「二本の伝声管か……」廊下に出ると、法水は意味あり気な口吻を洩らしたが、側の室が眼に入ると検事に向って、「どうだね支倉君、ここにある天平椅子にかけて、残りの訊問をする事にしようじゃないか」
最初に呼んだ寂蓮尼は、まさにゴッツオリの女だった。まだ二十六、七だろうけれども、見ていると透通ってでも行きそうな、何んとなく人間的でない、崇高な非現世的なものが包んでいるように思われた。所が、図書掛りを勤めているこの天使のような女は、事件当時経蔵にいた旨を述べ終ると、推摩
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