めたと云うのが、残り二側の玉幡だったのだよ」
「そうすると、傷の両端が違っているのは?」
「それでは支倉君、硬度の高い割合に、血液のような弱性のアルカリにも溶けるものを、君は幾つ数える事が出来るね。例えば、烏賊《いか》の甲のような、有機石灰質を主材に作ったとしたら、その鉤は血中で消えてしまって、脱け出した時には、それが繍仏《ぬいぶつ》の硬い指尖に化けてしまうだろう。然し、その変化の中に、驚くべき吸血具が隠されていたのだ」そうして、法水の推理が愈眼目とする点に触れて行ったが、その真相を聴いた検事は、思わず開いた口が塞がらなかった。どうしてあの時、曼陀羅を一本だけでも切ってみなかったのだろうか。
「つまり、一番複雑に思われるものが一番簡単なんだよ。あの曼陀羅を作った原植物と云うのが、毬華葛《まりげかずら》の干茎だからさ。シディの呪術には、あの茎とテグス植物の針金状の根とが、非常に巧みに使われていて、それを馬鹿な馬来人《まれいじん》が驚いている始末だがね。あの茎の内部にある海綿様繊肉質は血であろうと何んであろうと、苟《いや》しくも液体ならば、凡て容赦しない。つまり、あの曼陀羅と云うのは数千本の茎を嵌め込みにした結び目なしのものなんだから、その最後の一寸にまでも、繍仏の指頭から推摩居士の血液を啜り込む事が出来たのだよ。勿論そう云う吸血現象があったがために、下方に流れた血が少なかったのだ。だが支倉君、当然そうなると、そこに重量と膨脹と云う観念が起って来るだろう。実は、浄善尼を扼殺した四本の手も、同様其の中に蠢いていたのだよ。で、血を吸い尽した曼陀羅の干茎が、無気味に膨脹すると云う事は、斯う判れば、改めて云う迄もない事だろう。けれども、一方全長に於いても、恐らく五分の一以上も伸びたに違いないと云うのは、階段に血痕を残さず、推摩居士を上り口に下ろしたのを見ても判る事なんだ。つまり浄善尼は、重量の加わった玉幡の裾を咽喉に当てられ、おまけに、猛烈な廻転までもさせられてしまったので、結局それが、頸椎骨の脱臼までも惹き起す原因になってしまったのだよ。そこで、犯人はどうしたかと云うと、玉幡を吊した紐の片方を、階段の上層の壁に持って行って、膨らんで推摩居士をしっくりと包んでいる、玉幡を動かして行った。そして、四つの幡を合せた剔《えぐ》り紐を引き抜いて、予《あらかじ》め両脇に廻らして置いた紐を徐々に下ろして行ったのだ。それから、吊り紐を旧通《もとどおり》の位置にしてから、その裾を二列に合せて、四つの幡の裾を浄善の咽喉に当てたのだがね。然し、その頃から、干茎中の血液が次第に消失して行ったのだったけれど、それは前以って、自分の着衣に血痕を残さないため、犯人が小窓を開いて置いたからなんだ。当然そこからは、灼熱せんばかりの日光が差込んで来る。ねえ支倉君、血液の九〇%以上は水分なんだぜ。それが蒸発した後は、無論以前と大差ない重量になってしまうのだ。然し、その減量と収縮は、僕等が到着する迄の、二時間余りの時間内に終ってしまったのであって、発見した際に尼僧達は、玉幡の膨脹には気が付かなかったのだ。そうしてから、犯人は、愈最後の幕切れになって、あの金色燦然たる大散華を行ったのだよ。と云うのは、無論浄善の廻転にある事だが、その時尼僧の咽喉に喰い入っていた玉幡が、どう云う状態にあったかと云うと、急激な膨脹と収縮が相次いで起ったために、表面の金泥が浮き上って剥離しかかっていた所なので、あの猛烈な遠心力が、一気に振り飛ばしてしまったのだ。だが、そうした玉幡の廻転は、階下にいる推摩居士にも影響して、その瀕死の視覚に映じたものがあった。君は推摩居士が、「宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいる」と云った言葉を憶えているだろう。可成り神秘感を唆る文句だけれども、その正体と云うのは、一種の異常視覚に過ぎないのだ。つまり、格子戸の桝目に映った火焔太鼓の楕円形が、玉幡の円孔《まるあな》の現滅につれて、或は孔雀の輪羽のように見えたり、また円孔が現われない時には、その二つ三つだけが残ったりして、結局推摩居士に、そう云う錯視を起させたに違いないのだよ」
 検事は聴くだけでも相当疲労を覚えたらしく、彼は夢の中のような声を出した。
「すると密室は? 君が切り開いた中にもう一つあったのは?」
「それは、密室と云うよりも、笙がどうして自然に鳴ったかなんだよ」法水は几帳面な訂正をして、「それから犯人は、笙に仕掛を施して、その後に、玉幡を切り落してから階下へ下りたのだがね。所で君は、酒精《アルコール》寒暖計を知っているかね――細い管中の酒精《アルコール》が熱で膨脹すると云うのを。つまり犯人は、笙の吹き口に酒精《アルコール》を詰めて、それを縦にした根元を日光へ曝したのだ。そうすると当然膨脹した酒精は、中の角室の空気
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